西漢時代121 武帝(四十) 西域 前115年(3)

今回で西漢武帝元鼎二年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴の渾邪王が漢に降ってから、漢軍は匈奴を幕北(漠北)まで駆逐しました武帝元狩元年122年)
塩沢から東には匈奴がいなくなり、西域への道が通じます。
そこで張騫匈奴戦での失敗が原因で元狩二年121年に官爵を廃されています。『漢書張騫李広利伝(巻六十一)』によると、武帝大夏等の国に関してしばしば張騫に意見を求めていたようです)が建言しました「烏孫昆莫は元々匈奴に臣従していましたが、後に兵が少しずつ強くなったため、今後は匈奴に朝事(臣服)しようとしなくなりました。匈奴烏孫を)攻せめても勝てなかったため、遠ざけています。今、単于は漢によって困窮したばかりで、渾邪の故地は空になって人がいません。蛮夷の俗は故地を恋するもので、しかも漢の財物を貪っているので、この機に乗じて厚幣で烏孫を籠絡し、彼等を招いて東に移しましょう。渾邪の故地に住ませて漢と兄弟の契りを結ばせれば、必ず(漢の命を)聴くようになり、(漢の命を)聴くようになれば匈奴の右臂(右腕)を断つことになります。既に烏孫と結んだら、その西に位置する大夏の属大夏のような国)も全て招いて外臣にすることができます。」
 
資治通鑑』胡三省注によると、昆莫の父難兜靡の時代、烏孫は大月氏と共に敦煌祁連の間に住んでいた小国でした。後に大月氏が難兜靡を攻めて殺し、その地を奪いましたが、大月氏匈奴に敗れたため、西の塞王を攻めてその国を奪いました。昆莫は父の怨みに報いるため、西に向かって大月氏国を攻め破り、その地に留まって烏孫国を建てました。張騫が渾邪王の地敦煌周辺)烏孫の故地と称したのはそのためです。
 
武帝は張騫の意見に納得し、張騫を中郎将に任命しました。三百人を統率させ、各人に馬二頭を与えます。牛羊は万を数え、齎金(資金。または礼金幣帛の値は数千巨万(巨額)になりました。符節を持つ副使(持節副使)も多数任命し、道中で他の国に通じる道を見つけたら副使を分派することにしました。
 
張騫が烏孫に到着しました。
昆莫が張騫に会いましたが、礼節が傲慢でした。
張騫が天子の意思を伝えて言いました「烏孫が東に遷って故地に住むことができたら、漢は公主を送って夫人とし、兄弟の契りを結び、共に匈奴に対抗しよう。そうすれば匈奴を破れないはずがない(原文「匈奴不足破也」。「不足」は「不難」、難しくないという意味です)。」
しかし烏孫は漢から遠く離れており、漢の大小も知りません。また、匈奴に服属して久しく、しかも東に遷ったら匈奴と近接することになるので、大臣は皆、匈奴を恐れて東遷を望みませんでした。
張騫は長い間滞在しても要領を得られなかったため、副使を分けて大宛、康居、大月氏大夏、安息、身毒、于闐および周辺諸国に派遣しました。
烏孫は訳道(通訳と案内)をつけて張騫を送り返します。使者数十人、馬数十頭が張騫に従って東に向かい、漢の朝廷に答謝しました。その機会に漢の大小強弱を偵察します。『漢書西域伝下(巻九十六下)』によると、数十頭の馬は漢に献上されました。
 
この年、張騫が長安に帰って大行に任命されました(張騫が西域に行ったのは本年ではないようです)
一年余してから、張騫が大夏等の国に派遣した使者も帰国します。ほとんど全ての使者がそれぞれの国の者を連れて来ました。
こうして西域が始めて漢と通じます。
 
漢書張騫李広利伝(巻六十一)』によると張騫は大行に任命されて一年余で死にました。
 
西域には三十六の国があり、南北に大山、中央に河があります。
資治通鑑』胡三省注によると、漢と国交を結んだ国の数が三十六で、後に分かれて五十余国になりました。羌、鄯善、且末、小宛、精絶、戎盧、扜彌、渠勒、皮山、烏、西夜、蒲犂、子合、依耐、無雷、難兜、罽賓、烏弋山離、犂鞬、條支、安息、大月氏大夏、康居、奄蔡、大宛、桃槐、休循、捐篤、莎車、疏勒、尉頭、烏孫、姑墨、温宿、亀茲、烏累、渠犂、尉犂、危須、焉耆、烏貪訾離、卑陸、卑陸後国、郁立師、単桓、蒲類、蒲類後国、西且彌、東且彌、劫国、山国、狐胡、車師前王、車師後王です。
南山は于の南にあり、東は金城から出て漢の南山と接しました。北山は車師の北にありました。中央の河には二つの水源があります。一つは葱嶺、一つは于南山です。二つの河は北に向かって流れ、葱嶺で合流して東の蒲昌海に注ぎます。于以西の川は全て西に流れており、休循、罽賓、大月氏、安息等の国を通って西海に入ります。蒲昌海の水は地下に潜って流れ、南の積石で出て中国の河となります(再述します)。西海の水は東南の交州漲海で一つになります(西域から交州(広東)は離れすぎているので、胡三省注の記述に誤りがあります)
 
資治通鑑』本文に戻ります。
西域は東西六千余里、南北千余里あり、東は漢の玉門、陽関に接し、西は葱嶺に至ります。
河には二つの水源があり、一つは葱嶺から、一つは于(または「于闐」)から出て、合流してから東の塩沢に注ぎます。塩沢から玉門、陽関までは三百余里あります。
 
玉門と陽関から西域に出たら二つの道に分かれます。鄯善から南山の北に沿って進み、河に従って西の莎車に至るのが南道です。南道から西に向かって葱嶺を越えると大月氏、安息に出ます。
資治通鑑』胡三省注によると、鄯善は楼蘭国ともいいます。都は杅尼城で、陽関から千六百里離れています。莎車の都は莎車城で、長安から九千九百五十里離れています。
 
車師前王国の王廷から北山に沿って河を西に向かい、疏勒に至るのが北道です。北道から西に向かって葱嶺を越えれば大宛、康居、奄蔡に出ます。
資治通鑑』胡三省注によると、車師前王の都は交河城で、長安から八千百五十里離れています。疏勒の都は疏勒城で、長安から九千三百五十里離れており、西は大月氏、大宛、康居への道になります。奄蔡は後に粛特国(または「粟特国」)になります。
 
これらの国は全て匈奴に属していました。匈奴西部の日逐王が僮僕都尉(僮僕は僕人の意味です。『資治通鑑』胡三省注は、「恐らく匈奴が西域を僕人とみなしていたので、僮僕を官名にした」と解説しています)を置いて西域を統括しており、焉耆、危須、尉黎の間に常駐して諸国の賦税を管理したり富給(富裕な財)を徴収していました。
資治通鑑』胡三省注によると、焉耆の都は員渠城で、長安から七千三百里離れています。危須の都は危須城で、焉耆の東百里にあり、長安から七千二百九十里離れています。尉犂の都は尉犂城で、長安から六千七百五十里離れています。南は鄯善、且末の二国と接しています。
 
烏孫王が東に還ろうとしないため、漢は渾邪王の故地に酒泉郡を置き、徐々に内地の民を遷して充実させました。また、後には酒泉の地を分けて武威郡を置きました。こうして匈奴と羌が通じる道を遮断します。
資治通鑑』胡三省注によると、酒泉郡は城下に金泉があり、泉水の味が酒のようだったため、酒泉と命名されました。東南の長安から二千九百里離れています。
武威郡は長安から二千八百里離れています。
漢書地理志下』を見ると、酒泉郡が置かれるのは太初元年(前104年)、武威郡が置かれるのは太初四年(前101年)のことです。
 
武帝は大宛の汗血馬を得てとても大切にしました。「天馬」と名づけます。
汗血馬を得るために大宛に向かう使者が道に連なりました。
外国に行く使者は、大規模なものなら数百人、少ないものでも百余人で編成されており、携帯する齎(資金。または礼物)は張騫の前例とほぼ同等でした。しかし後に西域を習熟するようになると、人も物資も減少していきました。
一年の間で多ければ十余回、少ない時でも五六回使者を派遣し、遠い国に行った者は八九年、近い国に行った者でも数年経ってやっと帰国しました。
 
 
 
次回に続きます。