西漢時代124 武帝(四十三) 宝鼎 前113年(2)

今回は西漢武帝元鼎四年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
六月、汾陰の巫錦(錦は巫の名)が魏脽の后土営付近で大鼎を得ました。
「魏脽」というのは汾陰の脽(土丘)です。『資治通鑑』胡三省注によると、かつては魏地の墳(墳墓)だったため、魏脽といいます。后土営の「営」は「兆域(墳墓等の領域)」を意味するので、后土営は后土祠の領域内を指します。
 
大鼎の事を聞いた河東太守が武帝に報告しました。
武帝は使者を送って験問し、巫が大鼎を得たことに姦詐はないと判断しました。
そこで武帝は礼に基いて祭祀を行い、大鼎を甘泉に迎え入れました。武帝も大鼎と一緒に甘泉に入ります武帝は汾陰の后土祠を祀ってから滎陽、洛陽に行幸していました)
武帝は大鼎を宗廟と上帝に献上し、甘泉宮に保管しました。
群臣が武帝を祝賀しました(上寿賀)
 
武帝元狩元年(前122年)に書きましたが、大鼎(宝鼎)を得たことから「元鼎」という年号が建てられ、それ以前の「建元」「元光」「元朔」「元狩」という年号が後付けで作られたともいわれています。
 
漢書武帝紀』は「六月、后土祠の旁で宝鼎を得た。秋、渥洼水の中で馬が生まれた。『宝鼎』『天馬』の歌を作った」としています。
しかし『資治通鑑』は元狩三年(前120年)に「渥洼水で神馬を得た」と書いています。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋、常山憲王の子劉商を泗水王に立てました。
 
常山憲王は劉舜といい、景帝の子です。昨年死にました。
資治通鑑』胡三省注によると、泗水国は淩、泗陽、于の三県を治めます。元は東海郡に属していましたが、今回、武帝によって王国が設けられました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
條侯周亜夫が丞相だった頃(景帝時代)、趙禹が丞相史になりました。
府中の者が皆、趙禹を廉潔公平として称賛しましたが、周亜夫は趙禹を重用せず、こう言いました「趙禹が無害であること(公平で人に害を与えないこと)は極めて理解している。しかし文(法令)が深い(厳酷)ので、大府(高官の官府)に居させるわけにはいかない(丞相府で重権を与えるわけにはいかない)。」
 
趙禹は少府に遷ってから、当時の他の九卿よりも法が酷急(厳酷)になりました。ところが趙禹の晩年は、他の官吏が厳峻に務めているのに、名声を改めて寬平(寛大平穏)に務めるようになりました。
 
尹斉は以前から敢えて斬伐(処刑)することで名が知られていました。
資治通鑑』胡三省注によると、太古の少昊の子が尹城に封じられたため、その子孫が尹を氏にしました。また、周の世卿に尹氏がいました。
 
尹斉が中尉になってから、吏民がますます彫敝(衰敗。困窮)しました。
この年、殷斉は職責を全うできないことを弾劾されて罪を得ます。
武帝は再び王温舒を中尉に任命し、趙禹を廷尉にしました。
四年後、趙禹は老齢のため、燕国の相に官職を落とされました。
 
当時の吏治(官吏の政治、治め方)は惨刻(惨酷。厳酷)を尊んでいました。しかし左内史寬だけは農業を奨励し、刑罰を緩和し、獄訟を処理し、人心を得ることに務めていました。仁厚の士を選んで用い、下の者の心情を考慮し(推情與下)、敢えて名声を求めなかったため、吏民が児寛を信愛します。
寬は租税を集める時も緩急を調整し(民が貧困に苦しんでいたり農務に忙しい時は税を徴収せず)、民に金銭や物資を貸与して生業を営ませたため、租税の収入は多くありませんでした。
後に朝廷が軍を動員した時、左内史は税収の成績が最低だったため(原文「租課殿」。「課」は「考課」を指し、「殿」は成績が悪いという意味です。逆に成績が優秀なことを「最」といいます)、本来は罷免されるはずでした。しかしそれを聞いた民が児寛を失うことを恐れて、大家は牛車を使い、小家は荷物を担いだり背負ったりして官府に租税を届けました。税を納めるために集まった民衆が道に連なります(原文「属不絶」。縄が繋がっているという意味です)
その結果、児寛の課(考課。成績)は最(最上)に変わりました。
武帝は児寬を特別視するようになります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、南越文王趙胡が子の趙嬰斉を漢に送って宿衛にしました武帝建元六年135年)
趙嬰斉は長安で邯鄲樛氏の娘を娶り、興という子ができました。
文王が死んでから、趙嬰斉が南越王に立ちました。
大越史記全書(巻之二)』によると、南越文王は西漢武帝元朔四年(前125年)に死にました。趙嬰斉は文王の長子です。
 
即位した趙嬰斉は武帝(趙佗。文帝の祖父)の印璽を隠し、漢の朝廷に上書して樛氏の娘を王后に立てること、および趙興を後嗣にすることを請いました。
漢はしばしば使者を送り、趙嬰斉が入朝するように婉曲に勧めましたが、趙嬰斉は生殺の権力を自由に操りたいと思っていたため、入朝したら漢が国内の諸侯に対するように漢の法で南越王を遇すことになるのではないかと恐れ、頑なに病と称して入見しませんでした。
やがて趙嬰斉が死に、明王という諡号が贈られました。
太子興が即位し、母が太后になります。
 
大越史記全書(巻之二)』によると、趙嬰斉が死んだのは本年(元鼎四年)の事です。跡を継いだ趙興は哀王といいます。
 
太后樛氏は趙嬰斉の姫になる前に、霸陵の人安国少季と私通しました。
資治通鑑』胡三省注によると、安国が姓で少季は字です。
 
この年、武帝が安国少季を南越に派遣し、南越王と王太后に国内の諸侯と同じように入朝することを勧めました。
また、辯士の諫大夫(『資治通鑑』胡三省注によると、諫大夫は武帝が置いた官で、秩八百石です)終軍等に武帝の言葉を宣言させ、勇士魏臣等を送って趙嬰斉の決断を助けさせました。
更に、衛尉路博徳に兵を率いて桂陽に駐軍させ、南越の使者を待ちます。
 
安国少季が南越に来ると再び太后と私通しました。ほとんどの国人がそれを知ります。南越王趙興はまだ若く、太后も中国の人で、しかも安国少季と姦通したため、多くの人が太后を支持しなくなりました。
太后は乱が起きることを恐れ、また、漢の威勢に頼りたいと思ったため、しばしば王と群臣に漢の内属になるように勧めました。
そこで南越の使者が漢に上書し、国内の諸侯と同じように三年に一回入朝すること、辺関を除くことを請いました。
同意した武帝は南越の丞相呂嘉に銀印を下賜し、内史、中尉、太傅の印も与えました。その他の官は南越王が自由に任免できます(内史、中尉、太傅は朝廷の印をつけるので、朝廷から任命されたことになります。二千石以上は漢朝が任命し、その他の官は自由にできるというのは、諸侯王国と同等の待遇です)。また、南越の黥刑、劓刑を廃止し、国内の諸侯と同じように漢の法を用いさせました(漢は文帝時代に肉刑を廃止しました)
漢が派遣した使者は全て南越に留まって鎮撫しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武帝が雍に行幸して郊祭を行いました。
ある人がこう言いました「五帝は泰一の補佐です。泰一の廟を建てて、上(陛下)自ら(泰一のために)(郊祭)を行うべきです。」
武帝は躊躇して決断できませんでした。
すると斉人公孫卿が言いました「今年は宝鼎を得ました。また、その冬辛巳朔旦(十一月初一日朝)冬至に当たるのは(翌年の十一月初一日が冬至です)黄帝の時と同じです。」
 
公孫卿は札書(木簡の薄い物)を持っており、そこには「黄帝は宝鼎を得た。その年は己酉朔旦が冬至に当たる。三百八十年で黄帝は仙人になって天に登った」と書かれていました。
公孫卿はこの内容を武帝の嬖人(寵臣)を通じて上奏しました。
武帝は喜んで公孫卿を招き、話を聞きます。
公孫卿が言いました「この書は申公から受け継ぎました。申公はこう言いました『漢の興隆は黄帝の時と同じだ。漢の聖者は高祖の孫か曾孫に当たる。宝鼎が現れて神と通じ、黄帝は万霊と明庭で接した。明庭は甘泉である。黄帝は首山の銅を採取し、荊山の下で鼎を鋳た。鼎が完成してから、龍が胡(下顎の髭)を垂らして黄帝を迎えた。黄帝は龍の上に騎乗し、群臣後宮七十余人と共に天に登った。』」
武帝は「ああ(嗟乎)!もし黄帝のようになれたら、わしは妻子から離れることを屣(靴)を脱ぐことと同じように見なすだろう」と言って公孫卿を郎に任命し、東の太室山(嵩山。中嶽)で神の降臨を待たせました。
 
[] 『資治通鑑』は元鼎二年(前115年)に三官銭三官五銖銭)が発行されたとしていますが、『史記・平準書』『漢書・食貨志下』では張湯が死んだ二年後に三官銭が発行されているので、本年の事になります。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代125 武帝(四十四) 泰一 前112年(1)