西漢時代125 武帝(四十四) 泰一 前112年(1)

今回は西漢武帝元鼎五年です。二回に分けます。
 
西漢武帝元鼎五年
己巳 前112
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、武帝が雍を行幸して五畤の祭祀を行いました。
その後、隴山を越え、西の崆峒に登りました。
「崆峒」は「空桐」ともいい、山の名です。
 
武帝が突然行幸したため、隴西守(郡守)武帝の従官の食事を提供できず、罪を恐れて自殺しました。
 
武帝は北上して蕭関を通り、辺境の兵を整えるために数万騎を従えて新秦中(地名)で狩猟をしてから帰還しました。
この時、新秦中では千里にわたって亭徼(防御用の障壁)がない場所もあったため、北地太守以下の官員が誅殺されました。
 
資治通鑑』は触れていませんが、『漢書武帝紀』には「西の祖厲河に臨んで還った」とあります。
 
武帝は甘泉を訪れ、泰一の祠壇(祭壇。『漢書武帝紀』は「泰畤」としていますを建てました。祠具(祭祀の道具)は雍の一畤(雍の五畤の一つ)の祭祀よりも豊富になります。
資治通鑑』胡三省注によると、醴(甘酒)(干肉)等が雍の祭祀よりも増やされたようです。
 
また、泰一の祠壇の下に四方を囲んで五帝壇を築き、泰一と五帝に従う群神や北斗のためにも醊(祭祀用の酒)食物を供えました(群神や北斗も祀りました)
 
十一月辛巳朔が冬至に当たりました。
昧爽(空が徐々に明るくなる頃)武帝が始めて泰一を郊拝(郊祭。祭祀)しました。
朝は朝日に揖礼し、夕方は夕月に揖礼します。
資治通鑑』胡三省注によると、泰畤の郊祭の日は、皇帝は早朝に竹宮を出て、朝は東を向いて太陽に揖礼し、夕方は西南を向いて月に揖礼しました。
 
この日の祭祀では、灯された火が壇上を満たし、壇の傍に祭品を料理する道具が置かれました。
有司(官員)が「祠の上に光が現れた」と言い、また「昼に黄気が登って天に属した(黄気が天に登った。天に連なった)」と言いました。
史記封禅書』によると、夜に美光が現れ、昼に至って黄気が天に属しました。
 
太史令談、祠官寬舒等が武帝に三年に一回郊見(郊祭)するように請い、武帝は詔を発して同意しました。
太史令談は司馬談を指し、『史記』の作者司馬遷の父に当たります。『資治通鑑』胡三省注によると、太史令は太常に属し、秩は六百石です。天象や暦、祭祀、喪娶を管理しました。

祠官は祭祀を主管します。『史記封禅書』に「李少君武帝元光二年133年参照)が病死してから(中略)、史寬舒がその方(方術)を受け継いだ」とあるので、寬舒は名で、史が姓氏のようです(本来は「姓氏不明」と書きましたが、下部コメントをいただいたので訂正しました)

 
武帝が詔を発しました「朕は眇身(小さな身)を王侯の上に託しているが、徳はまだ綏民(安民)できず、一部の民は飢寒に苦しんでいる。よって后土を巡祭して豊年(豊作)を祈った。その結果、冀州脽壌(后土祠付近。「壌」は土の意味です)で文鼎(文字や模様が彫刻された鼎)が現れたので、それを得て廟に献上した。また、渥洼水から馬が現れて朕が御すことになった。戦戦兢兢として任に克てないことを懼れ、天地(の徳)を明らかにすることを思い(思昭天地)、内はただ自新している(反省して行いを改めている)。『詩(逸詩)』にはこうある『四頭の雄馬を並べて駆けさせ(四頭の馬が牽く車を駆けさせ)、服さない者を征伐する(四牡翼翼,以征不服)。』だから自ら辺垂(辺境)を省み、用事(祭祀)を極めた(至る所で祭祀を行った)。泰一を望み見て、天文(天文の祭祀。泰畤の祭祀を指します)を修めた(十一月辛巳朔)。辛卯(十一月初十日)の夜、景光(祥光)のようなものが現れ(上の記述では辛巳朔の祭祀の日に光が現れたとしています)、十二分に明るくなった(若景光十有二明)。『易』にはこうある『先甲三日,後甲三日(甲の三日前と甲の三日後。「辛」と「丁」の日に当たります)。』朕は年の収穫が完全ではないこと(年歳未咸登)を強く憂慮しているので、身を整えて斎戒し(飭躬齋戒)、郊で丁酉(十六日)に拝況する(顔師古注によると、「拝況」の「況」は「下賜」を意味し、「拝況」は天が下賜した景光に感謝して祭祀を行うという意味になります。景光が現れたのは辛日の夜なので甲日の三日前です。拝況する丁日は甲日の三日後です)。」
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
南越王趙興と王太后樛氏が漢に入朝するために旅の仕度を整えて重齎(重礼)を準備しました。
 
南越の相呂嘉は年長者で、三王に仕えて相を勤めてきました。宗族で仕宦して長吏になった者も七十余人おり、息子は全て王女を娶り、娘は全て王の子弟や宗室に嫁ぎ、蒼梧秦王とも婚姻関係を結んでいます。
資治通鑑』胡三省注によると、蒼梧王は趙光といい、自ら秦王を名乗っていました。一説では、趙氏の先祖は秦と同姓(嬴姓)だったので秦王を名乗ったといいます。
 
呂嘉は南越国内で尊重されており、王よりも人心を得ていました。
南越王が漢の朝廷に上書するようになってから、呂嘉はしばしば南越王を諫めました。しかし南越王が聞き入れないため、呂嘉は叛心を抱き、度々病と称して漢の使者に会おうとしなくなりました。
 
漢の使者は皆、呂嘉の言動に注意しましたが、勢力が大きいため誅殺できませんでした。
南越王と王太后も呂嘉等が先に事を起こすのではないかと恐れ、漢の使者の権力を借りて呂嘉等を誅殺する方法を謀りました。
そこで酒宴を開いて漢の使者を招きます。大臣も全て酒宴に参加しました。
呂嘉の弟は将として宮外で士卒を指揮しています。
酒がまわってから太后が呂嘉に言いました「南越が(漢に)内属するのは国の利となります。しかし相君はこれを不便として嫌っています。それはなぜですか?」
太后はこの発言で漢の使者を激発させようとしました。しかし使者達は互いに躊躇して譲り合うだけで、誰も動こうとしません。
呂嘉は耳目(周りの言動)が普通ではないことを見てとり、立ち上がって退出します。
太后が怒って矛で呂嘉を刺そうとしましたが、南越王が太后を止めました。
外に出た呂嘉は弟の兵に守られて舍(家)に還り、病と称して南越王にも使者にも会わなくなりました。秘かに大臣達と乱を謀ります。
しかし南越王には元々呂嘉を誅殺するつもりがなく、呂嘉もそれを知っていたため、数カ月間は何も起きませんでした。
 
武帝は呂嘉が朝廷の命に従わず、南越王と王太后は孤弱で呂嘉を制御できず、使者も呂嘉を恐れて決断できないという状況を知りました。しかし南越王と王太后は既に漢に帰順しており、呂嘉だけが乱を為そうとしているので、兵を起こす必要はないと考え、荘参に二千人を率いさせて南越に送ろうとしました。
荘参が言いました「好(友好)をもって行くのなら(友好が目的なら)数人で足ります。武をもって行くのなら(戦争が目的なら)二千人では事を為すのに足りません。」
荘参が辞退したため、武帝は荘参を罷免しました。
郟県の壮士で元済北相韓千秋が発奮して言いました「相手は区区とした越で、王と王太后の内応もあり、独り相の呂嘉だけが害をなしています。勇士三百人を得られれば、必ず嘉を斬って報告に還ります。」
武帝は韓千秋と王太后の弟樛楽に二千人を指揮させて南越に送りました。
漢軍が越の国境に入ります。
資治通鑑』胡三省注によると、韓千秋は済北成王胡の相だったようです。劉胡は貞王勃の子で、劉勃は淮南厲王劉長の子、劉長は高帝の子です。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代126 武帝(四十五) 南越離反 前112年(2)