西漢時代125 武帝(四十四) 泰一 前112年(1)
己巳 前112年
その後、隴山を越え、西の崆峒に登りました。
「崆峒」は「空桐」ともいい、山の名です。
この時、新秦中では千里にわたって亭徼(防御用の障壁)がない場所もあったため、北地太守以下の官員が誅殺されました。
また、泰一の祠壇の下に四方を囲んで五帝壇を築き、泰一と五帝に従う群神や北斗のためにも醊(祭祀用の酒)や食物を供えました(群神や北斗も祀りました)。
十一月辛巳朔が冬至に当たりました。
朝は朝日に揖礼し、夕方は夕月に揖礼します。
『資治通鑑』胡三省注によると、泰畤の郊祭の日は、皇帝は早朝に竹宮を出て、朝は東を向いて太陽に揖礼し、夕方は西南を向いて月に揖礼しました。
この日の祭祀では、灯された火が壇上を満たし、壇の傍に祭品を料理する道具が置かれました。
有司(官員)が「祠の上に光が現れた」と言い、また「昼に黄気が登って天に属した(黄気が天に登った。天に連なった)」と言いました。
祠官は祭祀を主管します。『史記・封禅書』に「李少君(武帝元光二年・前133年参照)が病死してから(中略)、史寬舒がその方(方術)を受け継いだ」とあるので、寬舒は名で、史が姓氏のようです(本来は「姓氏不明」と書きましたが、下部コメントをいただいたので訂正しました)。
武帝が詔を発しました「朕は眇身(小さな身)を王侯の上に託しているが、徳はまだ綏民(安民)できず、一部の民は飢寒に苦しんでいる。よって后土を巡祭して豊年(豊作)を祈った。その結果、冀州脽壌(后土祠付近。「壌」は土の意味です)で文鼎(文字や模様が彫刻された鼎)が現れたので、それを得て廟に献上した。また、渥洼水から馬が現れて朕が御すことになった。戦戦兢兢として任に克てないことを懼れ、天地(の徳)を明らかにすることを思い(思昭天地)、内はただ自新している(反省して行いを改めている)。『詩(逸詩)』にはこうある『四頭の雄馬を並べて駆けさせ(四頭の馬が牽く車を駆けさせ)、服さない者を征伐する(四牡翼翼,以征不服)。』だから自ら辺垂(辺境)を省み、用事(祭祀)を極めた(至る所で祭祀を行った)。泰一を望み見て、天文䄠(天文の祭祀。泰畤の祭祀を指します)を修めた(十一月辛巳朔)。辛卯(十一月初十日)の夜、景光(祥光)のようなものが現れ(上の記述では辛巳朔の祭祀の日に光が現れたとしています)、十二分に明るくなった(若景光十有二明)。『易』にはこうある『先甲三日,後甲三日(甲の三日前と甲の三日後。「辛」と「丁」の日に当たります)。』朕は年の収穫が完全ではないこと(年歳未咸登)を強く憂慮しているので、身を整えて斎戒し(飭躬齋戒)、郊で丁酉(十六日)に拝況する(顔師古注によると、「拝況」の「況」は「下賜」を意味し、「拝況」は天が下賜した景光に感謝して祭祀を行うという意味になります。景光が現れたのは辛日の夜なので甲日の三日前です。拝況する丁日は甲日の三日後です)。」
南越の相・呂嘉は年長者で、三王に仕えて相を勤めてきました。宗族で仕宦して長吏になった者も七十余人おり、息子は全て王女を娶り、娘は全て王の子弟や宗室に嫁ぎ、蒼梧秦王とも婚姻関係を結んでいます。
呂嘉は南越国内で尊重されており、王よりも人心を得ていました。
南越王が漢の朝廷に上書するようになってから、呂嘉はしばしば南越王を諫めました。しかし南越王が聞き入れないため、呂嘉は叛心を抱き、度々病と称して漢の使者に会おうとしなくなりました。
漢の使者は皆、呂嘉の言動に注意しましたが、勢力が大きいため誅殺できませんでした。
南越王と王太后も呂嘉等が先に事を起こすのではないかと恐れ、漢の使者の権力を借りて呂嘉等を誅殺する方法を謀りました。
そこで酒宴を開いて漢の使者を招きます。大臣も全て酒宴に参加しました。
呂嘉の弟は将として宮外で士卒を指揮しています。
太后はこの発言で漢の使者を激発させようとしました。しかし使者達は互いに躊躇して譲り合うだけで、誰も動こうとしません。
呂嘉は耳目(周りの言動)が普通ではないことを見てとり、立ち上がって退出します。
外に出た呂嘉は弟の兵に守られて舍(家)に還り、病と称して南越王にも使者にも会わなくなりました。秘かに大臣達と乱を謀ります。
しかし南越王には元々呂嘉を誅殺するつもりがなく、呂嘉もそれを知っていたため、数カ月間は何も起きませんでした。
武帝は呂嘉が朝廷の命に従わず、南越王と王太后は孤弱で呂嘉を制御できず、使者も呂嘉を恐れて決断できないという状況を知りました。しかし南越王と王太后は既に漢に帰順しており、呂嘉だけが乱を為そうとしているので、兵を起こす必要はないと考え、荘参に二千人を率いさせて南越に送ろうとしました。
荘参が言いました「好(友好)をもって行くのなら(友好が目的なら)数人で足ります。武をもって行くのなら(戦争が目的なら)二千人では事を為すのに足りません。」
荘参が辞退したため、武帝は荘参を罷免しました。
漢軍が越の国境に入ります。
次回に続きます。
西漢時代126 武帝(四十五) 南越離反 前112年(2)