西漢時代127 武帝(四十六) 南越平定 前111年(1)

今回は西漢武帝鼎六年です。三回に分けます。
 
西漢武帝元鼎六年
庚午 前111
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
冬、武帝が隴西、天水、安定の騎士や中尉(京師を守る軍官)と河南、河内の卒十万人を動員し、将軍李息、郎中令徐自為に西羌を征伐させました。
 
漢軍が西羌を平定しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
楼船将軍楊僕が越地に入り、まず尋陿(地名)を落として石門を破りました。
資治通鑑』胡三省注によると、石門は南越の都番禺の西北二十里にあります。南越相呂嘉が漢と対抗するために、江中に石を積んで門を造りました。
 
楊僕は南越の先鋒を挫いてから、数万人を率いて伏波将軍路博徳を待ち、共に進軍しました。楊僕が前を進んで番禺に至ります。
 
南越王趙建徳と相呂嘉は城を守りました。
楊僕が東南面に駐軍し、路博徳が西北面に駐軍します。
日が暮れる頃、楊僕が南越人を破って城に火を放ちました。
路博徳は営塁を構え、使者を送って南越兵に投降を誘いました。降った者には印綬を下賜し、再び帰らせて更に多くの者に投降を呼びかけさせます。
その間も楊僕が力戦して城を焼いたため、南越兵は路博徳の営に駆け入りました。
黎明には城中の全ての者が漢に投降します。
 
趙建徳と呂嘉は夜のうちに海に逃走していました。
路博徳は人を送って追撃させます。
校尉司馬蘇弘が趙建徳を、越郎都稽が呂嘉を捕らえました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、越郎というのは南越が置いた郎官のようです。「都稽」は『史記建元以来侯者年表』と『漢書景武昭宣元成功臣表』では「孫都」と書かれていますが、『史記南越尉它列伝(巻百十三)』『漢書西南夷両粤朝鮮伝(巻九十五)』は「都稽」としており、『資治通鑑』は列伝に従っています。
 
資治通鑑』等は捕まった趙建徳がどうなったのか明記していませんが、誅殺されたはずです(前年参照)
呂嘉も後述の内容を見ると首を斬られたようです(『漢書武帝紀』)
 
戈船将軍厳と下瀨将軍甲の兵および馳義侯遺が動員した夜郎の兵が到着する前に乱が平定され、南越王国は滅亡しました。
漢は南越の地を南海、蒼梧、鬱林、合浦、交趾、九真、日南、珠厓、儋耳の九郡に分けました。
資治通鑑』胡三省注によると、南方の夷人は足が大きく、指を開くと横に広がり、足を並べて立ったら左右の足の指が交わりました。そのため交趾という郡が生まれました。「趾」は「脚」「足の指」を意味します。
または交趾の人は足の骨に節(関節)がなく、体中に毛が生えており、寝ている者は誰かに抱えられないと立ち上がれなかったともいいます。
交趾は交脛国があった地で、そこに住む人々は左右の脚が曲がって交差していたともいわれています。
日南は太陽の南に位置しているという意味で、北の戸を開いて日光を取り入れていました(実際は北半球なので太陽は南にあります)
珠厓と儋耳は大海の崖岸にありました(現在の海南島北部です)。珠厓は真珠の産地です。
儋耳に住む人々は耳が大きく、渠率(統治者)で王を自称した者の耳は最も大きくて肩の下に三寸も垂れていました。または、儋耳の人は頬に刺青をしており、耳たぶの皮を伸ばして数本に分け、羊腸(細長くて曲がりくねった様子)のようにして耳から下に垂らしていた(鏤其頰皮上連耳匡分為数支状如羊腸累耳而下垂)ともいいます。
珠厓郡の治所は都といい、長安から七千三百二十四里離れていました。儋耳も長安から七千三百三十五里離れていました。
 
漢軍が帰還すると、武帝は伏波将軍路徳博(邳離侯。または符離侯。元狩四年119年参照)を加封し、楊僕を将梁侯に、蘇弘を海常侯に、都稽(または「孫都」)を臨蔡侯に封じました。
越から降った蒼梧王趙光や史定、畢取、居翁も封侯されました。
 
それぞれ封侯の日が異なります。以下、『史記建元以来侯者年表』と『漢書景武昭宣元成功臣表』及び『資治通鑑』胡三省注からです。
楊僕は三月乙酉に将梁侯に封じられました。後に罪を犯して国が廃されるため、諡号はありません。
史定は三月乙酉に安道侯に封じられました。後に罪を犯して国が廃されるため、諡号はありません。
畢取は三月乙酉に侯に封じられました。後に罪を犯して国が廃されるため、諡号はありません。
趙光は四月癸亥に随桃侯に封じられました。諡号は頃侯です。
居翁は五月壬申に湘城侯(または「湘成侯」)に封じられました。諡号は分かりません。
蘇弘は七月乙酉に海常侯に封じられました。諡号は荘侯です(『漢書』は東漢明帝劉荘の諱を避けて「厳侯」としています)
都稽は翌年(元封元年)閏月癸卯に臨蔡侯に封じられました。諡号はわかりません。
 
[] 『資治通鑑』からです。
公孫卿が河南で神の降臨を待っており、仙人の跡(足跡)を緱氏城で発見したと言いました。
 
春、武帝自ら緱氏城に行幸して跡を見に行きました。
武帝が公孫卿に問いました「文成(少翁)や五利(欒大)を真似るつもりではないか?」
公孫卿が言いました「仙者が人主に求めているのではなく、人主が求めているのです。その道が寬假(寛大寛恕)でなければ神は来ません。神事を語るのは迂誕(迂遠かつ大言)のようですが、歳月を積めば招くことができます。」
武帝はこれを信じ、各地の郡国で道を拡大補修したり、宮観や名山等の神祠を修築して神仙の降臨を望みました。
 
漢書武帝紀』によると、武帝は東行して緱氏に入る前に、左邑県桐郷に至って南越を破ったという報告を受けました。そこで聞喜県に改名しました。
春、汲県新中郷で呂嘉の首を得たと聞いたため、獲嘉県に改名しました。
漢書』の注によると、緱氏は河南郡、左邑は河東郡、汲は河内郡の県です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武帝は南越を平定した事を神に感謝するために(原文「賽南越」。「賽」は神に感謝するための祭祀です。「賽祠」ともいいます)、泰一と后土を祀って始めて楽舞を用いました。
 
漢書郊祀志上』によると、元鼎五年(前年)秋、武帝は南越討伐を泰一に報告して戦勝を祈りました。そのため、今回、泰一に対して賽祠を行いました。
 
 
 
次回に続きます。