西漢時代128 武帝(四十七) 南夷平定 前111年(2)

今回は西漢武帝元鼎六年の続きです。
 
[] 南越討伐のために馳義侯遺が南夷の兵を徴収しました。
しかし且蘭君(且蘭の国君。南夷に属します)は南越への道が遠いため、遠征の間に周辺諸国が老弱の者を奪いに来るのではないかと恐れ、衆を率いて漢に反しました。漢の使者と犍爲太守を殺します。
 
漢は南越を撃つ予定だった八校尉が率いる巴蜀の罪人(または「巴蜀の罪人で南越を撃つはずだった者と八校尉」。原文「巴蜀罪人当撃南越者八校尉」)を動員し、中郎将郭昌と衛広を派遣して且蘭を討伐させました。
漢軍は且蘭君と邛君(邛都の君)都の君)を殺して南夷を平定し、牂柯郡を置きました。
 
以上の記述は『資治通鑑』を元にしました。
漢書武帝紀』は「馳義侯遺の兵がまだ下っていなかったので(東に戻っていなかったので。原文「馳義侯遺兵未及下」。「下」は「川を下る」「東下する」という意味だと思います)武帝西南夷を討伐するように命じ、これを平定した」と書いています。『武帝紀』を見ると、馳義侯遺が漢軍を指揮したようです。
 
しかし同じ『漢書』でも『西南夷両粤朝鮮伝(巻九十五)』は少し異なります。『資治通鑑』の元になっている内容なので、以下、引用します(一部『史記西南夷列伝(巻百十六)』も参考にします)
「南越(『漢書』は「南粤」と書いていますが、「南越」に統一します)が漢に反した時、武帝は馳義侯を派遣して犍為から南夷の兵を動員させました。しかし且蘭君は遠征中に周辺国が老弱の者を奪いに来るのではないかと恐れ、衆を率いて反しました。漢の使者と犍為太守を殺します。
これに対して漢は、南越を撃つはずだった八校尉が率いる巴蜀の罪人に南夷を撃たせました。
越が破れた時、漢の八校尉はまだ下っていませんでした(東に向かっていませんでした。原文「不下」)。中郎将郭昌と衛広が兵を率いて還り(郭昌と衛広が八校尉に含まれるのか、朝廷が新たに二人を派遣したのかはわかりません)、行軍中に滇への道を塞いでいる且蘭(『史記』では「頭蘭」。且蘭を指します)を誅殺して数万人を斬首しました。
こうして南夷を平定して牂柯郡を置きました。(略)南越が破れてから、漢が且蘭、邛君を誅殺し、併せて侯を殺したため、冉駹等が皆震恐しました。」
 
漢書西南夷両粤朝鮮伝』の記述を見ると、兵を率いたのは馳義侯遺ではないようです。あるいは犍為太守と一緒に殺された漢の使者に馳義侯遺も含まれるのかもしれません。
 
以下、『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夜郎侯は南越に頼っていましたが、南越が滅亡したため、漢に入朝しました。
武帝夜郎侯を夜郎王に封じます。
冉駹等も震撼して漢に臣属することと漢の官吏を置くことを願いました。
武帝は邛都を越越嶲郡)に、都を沈黎郡に、冉駹を汶山郡(文山郡)に、広漢西部の白馬を武都郡にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、沈黎郡の治所は都で、長安から三千三百三十五里離れています。汶山は岷山、山ともいい、冉駹の地でした。武帝が汶山郡山郡)を置きましたが、西漢宣帝時代に蜀郡と合併されます。広漢郡は高帝が置きました。白馬は白馬氐(氐族の一種)が住む地で、武都仇池周辺を指します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、東越王餘善は南越を討伐した漢軍を援けるため、卒八千人を楼船将軍楊僕に従えさせることを願って上書しました。
しかし東越の兵は揭陽に至ると海の風波を理由に行軍を止めて様子を伺い、秘かに南越に使者を送りました。
漢が番禺を落としてからも東越の兵は到着しません。
 
そこで楊僕が上書して東越討伐を請いました。
武帝は士卒が疲弊しているため遠征を許さず、諸校に命じて豫章や梅嶺で駐軍して命を待たせました。
 
一方、東越王餘善は楊僕が東越の誅討を請い、漢兵が国境に臨んだと聞いて漢に反しました。兵を発して漢の進路を塞ぎ、将軍騶力等を吞漢将軍と号させます。
東越軍は白沙、武林、梅嶺に入り、漢の三校尉を殺しました。
 
この時、漢は大農張成と元山州侯劉歯を派遣して近くに駐屯させていました。
漢書王子侯表』によると、山州侯劉歯は城陽共王劉喜の子です。劉喜の父は景王劉章で、その父は斉悼恵王劉肥に当たります。劉肥は高帝の子です。
劉歯は前年の酎金事件で侯位を奪われていました。
 
東越軍が漢の三校尉を殺しましたが、二人とも敢えて出撃せず、安全な場所に撤退してしまいました。
二人は畏懦(臆病惰弱)の罪で誅殺されます。
 
東越王餘善は自ら武帝を称しました。
 
武帝は再び楊僕を将にして東越を討伐させようとしました。しかし楊僕は南越討伐での功労に頼って驕っていたため、武帝が書を送って譴責しました「将軍の功は先に石門と尋陿を破っただけであり、将を斬って旗を奪うという実はなかった。どうして驕るに足るのだろうか。前回、番禺を破ってから、投降した者を捕えて虜(捕虜)とし、死人を掘って獲(戦功)とした。これが一つ目の過ちである。建徳と呂嘉に東越の援けを得させた。これが二つ目の過ちである。士卒が連年(戦地で)暴露したのに、将軍はその勤労を念じず、伝車で辺塞を巡行することを請い、そのついでに家に還り、銀黄を持って三組を垂らし(銀と黄は銀印と金印です。組は印の紐です。楊僕は主爵都尉、楼船将軍、将梁侯なので、三組を持っています)、郷里で自慢した。これが三つ目の過ちである。内を顧みて(妻妾との別れを惜しんで)期日に遅れたのに、道が悪いことを理由にした。これが四つ目の過ちである。君に蜀刀の価(値段)を聞いたら、知らないふりをした。欺瞞によって国君を犯したのが五つ目の過ちだ。詔を受けたのに蘭池に至らず(『資治通鑑』胡三省注によると、蘭池宮は渭城にあります。今回出征の前に武帝が楊僕を蘭池宮に来させようとしましたが、楊僕は来なかったようです)、翌日になっても説明をしなかった。もしも将軍の吏が質問されたのに答えず、命令を下したのに従わなかったら、どのような罪になるか。このような心を外に推し拡げたら、江海の間(天下)で信を得ることができるか(このような心を推奨して拡げたら天下に信が無くなってしまう)。今、東越が深く侵入した。将軍は衆を率いて過失を補うことができるか。」
楊僕は恐れて「死力を尽くして贖罪することを願います」と言いました。
 
武帝は横海将韓説を句章から出撃させ、海を通って東方を攻めさせました。
楼船将軍楊僕は武林から出撃し、中尉王温舒も梅嶺を出ます。
更に越侯(恐らく「帰義越侯」。南越討伐時の戈船将軍厳と下瀨将軍甲)を戈船将軍と下瀨将軍とし、若邪と白沙から出て東越を撃たせました。
 
漢書武帝紀』は出征経路が少し異なります。以下、『武帝紀』からです。
秋、東越王・餘善が反し、漢の将吏を攻めて殺したため、横海将軍・韓説、中尉・王温舒を会稽から出撃させ、楼船将軍・楊僕を豫章から出撃させました。
 
 
 
次回に続きます。