西漢時代129 武帝(四十八) 西域経営 前111年(3)

今回で西漢武帝元鼎六年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
博望侯張騫が西域への道を開いて尊貴な地位を得たため、部下の吏士も争って上書し、外国の奇怪な事物や利害関係を述べて使者になることを求めました。
武帝は西域の道が遠く離れており、人々が喜んでいくような場所ではないと考えたため、彼等の言に同意して符節を与えました。また、身分の高低や出身を問わず吏民を募集し、遂行の人員をそろえてから彼等を派遣して西域への道を拡げることにしました。
しかし使者達が帰国する時、幣物(礼物。財物)を盗み取ったり天子の意思に背く者もおり、朝廷はそれを禁じることができませんでした。
武帝は彼等が西域への道を習熟していたため、いつも重罪として裁きを下し、彼等を憤激させてから、再び使者として功を立てることで贖罪させようとしました。そのため彼等は際限なく使者になって西域に赴くことができ、しかも法を犯した事を軽視しました。
 
随行の吏卒も帰国するたびに外国の事物を大げさに語って称賛しました。大言できる者には節が与えられて正式に使者となり、大言できない者は副使になります。妄言が得意で品行が乏しい者は皆、彼等に倣いました。
これらの使者は貧しい家庭の生まれだったため、県官(朝廷)の齎物(礼物。財物)を私物化し(朝廷に納めず)、勝手に安く売って利益を自分のものにしました。
 
外国も漢の使者が語る内容が人によって違うため、漢の使者を嫌い始めました。
外国は漢兵が遠く離れていて西域を遠征できないと考え、漢の使者に食物を与えることを禁止して苦しめます。
漢の使者は窮乏し、怨みを積もらせて西域諸国を攻撃することもありました。
 
楼蘭や車師といった小国は漢の使者が通る道の上にありました。楼蘭は西域南道、車師は北道です。
二国は最も激しく漢の使者・王恢等を襲いました。
しかも匈奴の奇兵(遊撃部隊。または騎兵)も時々道を塞いで漢の使者を攻撃します。
 
そこで漢の使者は争って「西域にはそれぞれ城邑があるものの、兵は弱く攻め易い」と進言しました。朝廷の出兵を促すためです。
武帝は浮沮将軍公孫賀に一万五千騎を率いて九原から出撃させました。公孫賀は二千余里進軍し、浮沮井に至って引き還します。
資治通鑑』胡三省注によると、浮沮は匈奴の井戸の名です。出撃する時に浮沮井に至ることを期待したため、それを将軍の号にしました。この後の匈河将軍も同じです。
 
匈河将軍趙破奴も一万余騎を率いて令居(地名)から出撃し、数千里進んで匈河水に至ってから還りました。
二将軍の目的は匈奴を駆逐して漢の使者を妨害させなくすることでしたが、一人の匈奴兵とも遭遇しませんでした。
 
漢書武帝紀』は「浮沮将軍公孫賀を派遣して九原から出撃させ、匈河将軍趙破奴を令居から出撃させた。それぞれ二千余里進んだが、虜匈奴を見ることなく還った」としています。しかし『漢書』の注に「浮沮は井戸の名で匈奴の中にあり、九原から二千里離れている」「匈河は川の名で匈奴の中にあり、令居から千里離れている」とあるので、匈河水に至った趙破奴の行軍距離は千里余のはずです。『資治通鑑(元は『史記』『漢書』の「匈奴列伝」)の「数千里」も「千数里」の誤りではないかと思われます。
 
漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
漢は武威郡と酒泉郡の地を分けて張掖郡と敦煌郡を置き、民を遷して充実させました。
 
漢書武帝紀』では、武帝元狩二年(前121年)匈奴の渾邪王が降ったため、その地を武威郡と酒泉郡にしました。元鼎六年(本年)、この二郡が分かれて張掖郡と敦煌郡になりました。
しかし『漢書地理志下』を見ると、張掖郡と酒泉郡は武帝太初元年(前104年)に、武威郡は武帝太初四年(前101年)に置かれており、敦煌郡は武帝後元元年(前88年)に酒泉郡から分かれています。
資治通鑑』は『武帝紀』に従っています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、斉相卜式を御史大夫に任命しました。
 
卜式は着任してからこう言いました「郡国の多くは県官(朝廷)が作った塩鉄器(塩を製造する道具と鉄製の器具。塩と鉄の製造は政府が独占していたため武帝元狩四年119年参照)、塩を造る道具は政府が作って製塩業者に提供し、鉄器も政府が鋳造していました)を不便としています。苦悪価貴(質が悪いのに価格が高いこと)で、しかも民に強制して買わせていることもあります。また、船にも算(税)がかけられているので、商者(商人)が少なくなり、物が高くなっています。」
この一件があってから、武帝は卜式を好かなくなりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、司馬相如が病を患って死んだ時、遺書を残しました。武帝の功徳を称賛し、符瑞の事に言及して泰山を封じるように勧める内容です。
武帝はこの遺言に感動しました。ちょうどその頃、宝鼎を得たため、武帝は公卿諸生と一緒に封禅について議論しました。しかし封禅の儀式はめったに行われることがなく、長い間途絶えていたため、儀礼に詳しい者がいません。
そこで諸方士が言いました「封禅とは不死の名と合うものです(封禅は不死を意味します。原文「封禅者合不死之名也」。資治通鑑』は『史記・封禅書』に従っています。『漢書・郊祀志』では「封禅者古不死之名也」となっています。「封禅は古では不死の名だった」という意味です)。黄帝以前の君主は封禅によって皆、怪物を招き、神と通じましたが、秦皇帝は上封(泰山の頂上で天を祀ること)できませんでした。陛下が必ず上封したいのなら、ゆっくり登って風雨がなければ、上封を完成できるでしょう。」
武帝は諸儒に命じて『尚書』『周官』『王制』の文を元に封禅の儀礼の大まかな内容をまとめさせましたが、数年経っても完成しませんでした。
武帝が左史・児寬に意見を求めると、児寬はこう言いました「泰山を封じて梁父を禅すのは、(祖先の)姓を顕揚して瑞(瑞祥)を探求(昭姓考瑞)する帝王の盛節(盛典)です。しかし享薦(祭祀)の義は『経』に記されていません。臣が思うに、封禅を完成させて天地の神祇(神)と合祛(開閉)させるためには(天地の神と繋がるためには)、聖主だけが相応しい制度を定められるのであり、群臣が列する(参与できる)ことではありません。今、大事を挙げようとしているのに数年も無駄に経過し(優游数年)、群臣をそれぞれ尽力させているのに完成できません。ただ天子だけが中和の極(原則)を建てて條貫(系統)を総合し、金声玉振(金玉の音。天子が声を発して徳音を響かせること。原文「金声而玉振之」)させて天慶(上天の福)を順調に成就させ、万世の基(基礎。法則)を垂れさせる(残す)ことができます。」
納得した武帝は自ら儀礼を制定し、儒術を広く採用して修飾しました。
しかし武帝が封禅の祠器を準備して儒者達に見せたところ、ある者が「古と同じではありません」と言いました。武帝は諸儒を全て退けます。
武帝は古に則ってまず軍を整えて兵を解散してから(振兵釋旅)、封禅の儀式を行うことにしました。
 
 
 
次回に続きます。