西漢時代131 武帝(五十) 封禅 前110年(2)

今回は西漢武帝元封元年の続きです。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、武帝が西に還りました。
奉高(泰山郡の治所)に至ってまず梁父で地主を礼祠(礼祀)します。
地主は八神の一つです(前回参照)。梁父県は泰山郡に属します。
 
乙卯(十九日)武帝が侍中の儒者に皮弁(鹿の皮で作った冠)を被って笏を腰帯に挿す(搢紳)ように命じました(衣冠を正させました)。射牛の行事を行い、泰山下の東方で封の儀式(土を盛って天を祀る儀式)を行います。その儀礼は泰一の郊祠と同じです。
 
漢書武帝紀』は「癸卯(初七日)武帝が還って泰山に登り、封の儀式を行った」としています。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「癸卯(初七日)海上から還り、乙卯(十九日)に泰山に至って事を行った」と解説しています。
 
(土を盛った場所)は幅一丈二尺、高さ九尺あり、その下に玉牒書(玉簡の書)が埋められましたが、書の内容は秘密にされました。
儀礼が終わってから武帝は侍中で奉車都尉の霍子侯霍去病の子。子侯は字)だけを連れて泰山を登り、再び封の儀式を行いました。その内容は全て内密にされます。
 
翌日、山陰(山北)の道を下りました。
丙辰(二十日。山陰を下りた日です)武帝が泰山麓の東北にある粛然山(『史記・孝武本紀』の注によると、粛然山は梁父の山です)で禅の儀式(地を平らにして祀る儀式)を行いました。その儀礼は后土を祀る時と同じです。
 
泰山の封と粛然山(梁父)の禅を合わせて「封禅」といいます。封禅の儀式は功績がある帝王のみが行えるとされていました。武帝の前には始皇帝が封禅の儀式を行っています。
 
封と禅の儀式において、武帝は自ら拝礼して神を祀りました。黄色い服をたっとび(黄色い服を着て)、音楽を用い尽くします。江淮一帯でとれる三脊茅(一本の茎に三本の筋が通っている茅)で神藉(供物を置く敷物)を作り、五色の土を混ぜて封(盛り土)にしました。
封禅の祭祀を行っている間、夜は光があるように明るく、昼は白雲が封の中から出ました。
 
武帝は禅から還って明堂に坐りました。群臣が順番に寿を祝い、功徳を讃頌します。
資治通鑑』胡三省注によると、明堂は奉高から西南四里の場所にありました。または泰山の東北の麓に古の明堂の跡があり、武帝はそこで群臣の祝賀を受けました。翌年秋に改めて明堂が造られました。
 
武帝が詔を発しました「朕は眇身(小さな身)をもって至尊を受け継ぎ、徳が軽薄で(徳菲薄)、礼楽に明るくないことを兢兢として恐れている。よって八神の祭祀を行った(用事八神)。そのおかげで天地の況施(施し)を蒙り、景象(現象。吉祥。『史記・封禅書』では「景光」としているので、恐らく元鼎五年・前112年の景光を指します)が現れて顕著になり、小さな声を聞いたようだったので(「屑然如有聞」。万歳の声が三回聞こえたことを指します)、怪物(怪異)に震え、止めたくても止めることができず、泰山に登って封(天を祀る儀式)を行い、梁父に至り、その後、粛然(山)に登って(禅。地を祀る儀式)を行ったのである。(朕は)これから自新し、士大夫と共に更始(更新)することを嘉する。よって(本年)十月からを元封元年とする。
今回巡行して至った博、奉高、蛇丘、歴城、梁父では、民の田租と逋賦貸(「逋賦」と「逋貸」。「逋賦」はまだ納めていない田賦。「逋貸」は官から借りて返却できていない財物)を既に除いた(『漢書武帝紀』は「民田租逋賦貸已除」、『資治通鑑』は「民田租逋賦皆貸除之」としています。ここは『漢書』に従いました)。加えて年七十以上の孤寡には一人当たり二匹の帛を与える。四県は今年の算(税)を出す必要が無い(顔師古注によると、四県は博、蛇丘、歴城、梁父を指します。奉高県は元々神を奉じるために財貨を納めていたため、算(税)の対象から外れていたようです)天下の民に爵一級を、女子百戸ごとに牛酒を下賜する武帝元鼎四年113年参照)。」
この詔が年号に関する初めての詔です。そのため「元封」が最初の年号とも言われています。
 
武帝は五載(五年)に一回巡狩して泰山の祭祀を行うことにし、諸侯にはそれぞれ泰山の下に邸宅を構えるように命じました。
 
武帝が泰山で封の儀式を終えるまで風雨が起きなかったので、方士達がますます蓬莱の諸神を得られるはずだと言うようになりました。喜んだ武帝は神仙との遭遇を期待し、再び東に向かって海を望みました。
武帝は自ら海上に出て蓬莱を探そうとしました。群臣が諫めても止められません。
そこで東方朔が言いました「仙者とは自然に得るものであって、躁求(慌てて求めること)するものではありません。もし道があるのなら得られないことを憂いる必要はなく、もし道が無いようなら蓬莱に至って仙人に会っても無益です。臣は陛下がただ宮に還って静かに待つことを願います。仙人は自ら至るでしょう。」
武帝はやっとあきらめました。
 
この時、奉車都尉霍子侯が急病にかかり、一日で死んでしまいました。
武帝は非常に哀痛してその地を去ります。
 
武帝は海に沿って北上しました。碣石に至ってから遼西を出て北辺を巡行し、九原に至ります。
五月、甘泉に到着しました。
今回巡行した距離は一万八千里に及びました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、桑弘羊が治粟都尉の任について大農(大司農)を兼任しました(領大農)
桑弘羊は天下の塩鉄専売を管理しています。
 
桑弘羊は平準の法も作りました。
遠方の地方官に命じ、それぞれの地の産物で、かつては商賈(商人)が転売していたような物を賦として納めさせます。京師には平準官(大農に属します)を置き、天下の輸送を受け入れさせます。大農の諸官は天下の貨物を全て把握し、値段が高くなったら売り出し、安くなったら買い取ります。こうすることで富商大賈(大商人)大利を得られなくし、万物の価格高騰も抑えようとしました。
 
通常、平準法は武帝元鼎二年(前115年)に施行された均輸法と併称して「均輸平準法」と呼ばれます。どちらも桑弘羊が中心になって実行した西漢時代を代表する経済政策です。
 
資治通鑑』に戻ります。
武帝が郡県を巡狩(巡行)した時、通過した場所で吏民に賞賜を与え、使用した帛は百余万匹、銭金は巨万を数えましたが、全て大農から供給できました。
 
桑弘羊は官吏が粟穀物を納めたら補官(任官)され、罪人なら贖罪できるという新しい決まりを武帝に上奏して同意を求めました。
これらの政策によって、山東(京師に)輸送する粟(食糧)は年に六百万石も増え、一年で太倉、甘泉倉が満たされ、辺境にも穀物の余剰ができ、諸物が均輸されました(均輸法によって各地に運ばれました)均輸された帛は五百万匹に及びます(または「諸物が均輸され、帛に換算すると五百万匹分に上りました」。原文「諸物均輸帛五百万匹」)。民の賦税を増やさなくても天下が豊かになります。
 
武帝は桑弘羊に左庶長の爵位と黄金再百斤(二百斤)を下賜しました。
 
当時ちょうど小規模な旱害がありました。
武帝は官員に求めて雨を求めさせます。
すると卜式が言いました「県官(朝廷の官員)とは本来、租を食して税を衣とするだけのはずです(租税を元に衣食を得るものです)。しかし今は弘羊が吏(官吏)に命じ、市に坐して店を開かせ(坐市列肆)、物を売って利を求めさせています。弘羊を烹(釜茹で)に処さなければ、天は雨を降らせないでしょう。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
秋、孛星(異星。彗星の一種)が東井に現れました。
資治通鑑』胡三省注によると、東井八星は天の南門に当たり、黄道が通ります。また、東井は雍州に当たるともいいます。
 
十余日後、孛星が三台に現れました。
資治通鑑』胡三省注によると、魁(北斗七星の第一星。七星をひしゃくとした時、水を汲む部分の先端の星)の下の六星を三台といいます。
 
望気(気を観測すること)の王朔が言いました「(天文を)観測した時、塡星土星だけが現れて瓜のようだった。食事をする程度の短い時間でまた入ってしまった(見えなくなった)。」
有司(官員)が皆言いました「陛下が漢家の封禅を建てたので、天が徳星(塡星)で報いたのです。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、斉王劉閎(懐王)が死にました。劉閎は武帝の子です。
跡継ぎがいないため、斉王国は廃されました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代132 武帝(五十一) 衛氏朝鮮 前109年(1)