西漢時代132 武帝(五十一) 衛氏朝鮮 前109年(1)
壬申 前109年
春正月、公孫卿が武帝に言いました「東莱山で神人を見ました。天子に会いたいと言っているようでした。」
この年は旱害に襲われていました。
武帝は外出の名分がありませんでしたが、干害を口実に万里沙で祈祷を行いました。
夏四月、武帝が帰還し、途中で泰山を祀りました。
武帝は汲仁と郭昌の二卿に士卒数万人を動員させ、瓠子の決壊した場所を塞がせました。
また、群臣、従官で将軍以下の者全てに薪を背負わせ、河を塞ぐ工事を手伝わせました。『瓠子の歌』が作られます。
堤防の上に宮殿を築いて宣防宮と名づけました。
この後、梁と楚の地が安寧を取り戻し、水災が無くなりました。
武帝が始めて越巫に命じて上帝や百鬼を祀らせ、雞卜を採用しました。
公孫卿が武帝に「仙人は楼に住むことを好みます」と言いました。
また、通天茎台を建ててその下に祠具(祭祀の道具)を置きました。
更に甘泉宮前殿を築き、諸宮室も拡大しました。
「桂観」は「桂館」ともいいます。
『資治通鑑』胡三省注によると、玄菟(漢が置いた郡の名です)は元々真番国でした。朝鮮には湿水、洌水、汕水の三水(川)があり、洌水で合流します。楽浪(漢が置いた郡の名です)や朝鮮はこの川にちなんで命名されたようです(「楽浪」は「浪」が海川と関係しています。「朝」は潮と同音で海川に繋がります。「鮮」は仙と同音です。現代中国語では「仙」と「汕」は異なる音ですが、古代は近い音だったのかもしれません)。
秦が燕を滅ぼしてからは、真番や朝鮮は遼東郡の外徼(辺界)になりました。
しかし漢が興ると、真番や朝鮮の地が遠くて守るのが困難なため、遼東の旧塞を修築して浿水を境界とし、浿水以西を燕国に属させました。
後に燕王・盧綰が漢に反して匈奴に入ると(高帝十二年・前195年)、燕人の衛満が亡命しました。党人千余人を集め、椎髻(頭髪を後ろで束ねる髪形の一つ)と蛮夷の服で東に走って塞を出ます。浿水を渡った衛満一行は、かつて秦が治めていて当時は空地になっていた上下障(恐らく燕・秦が築いた北と南の長城の間という意味です)に住みました。やがて真番や朝鮮に役属(隷属)していた蛮夷や燕の亡命者が集まり、衛満を王にしました。この王朝を衛氏朝鮮といい、王険が都になりました。王険は後の平壤城です。
西漢恵帝や高后(呂太后)の時代は、天下を平定したばかりだったため、遼東太守は衛満と約束して外臣としての地位を保たせました。塞外の蛮夷を保護し、漢の国境を侵させないこと、諸蛮夷の君が漢の天子に入見を欲しても朝鮮が妨害してはならないことを定めます。
漢が朝鮮の存続を認めたため、衛満は兵威や財物を利用して周辺の小邑を侵したり降していきました。真番や臨屯(後に漢が郡を置きます)等が服属し、朝鮮は方数千里を擁すようになります。
衛満の後、子を経て孫の右渠に王位が継承されました。朝鮮に誘われて亡命した漢人はますます増えています。
しかし衛右渠は最後まで武帝の詔に従おうとしません。
『漢書・西南夷両粤朝鮮伝(巻九十五)』の顔師古注は「長は裨王の名」としています。しかし『史記・朝鮮列伝(巻百十五)』の注(正義)は、「裨王長」は「朝鮮の裨王」と「将士の長」という意味で、顔師古の説を「恐らく誤り(恐顔非也)」としています。
武帝はこれを美名とみなして譴責を加えず、遼東東部都尉に任命しました。
しかし朝鮮は渉何を怨んでいたため、兵を発して遼東を襲い、渉何を殺しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、遼東東部都尉の治所は武次県です。
次回に続きます。