西漢時代132 武帝(五十一) 衛氏朝鮮 前109年(1)

今回は西漢武帝元封二年です。二回に分けます。
 
西漢武帝元封二年
壬申 前109
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
冬十月、武帝が雍を行幸し、五畤を祀りました。
還ってから泰一を祝祠(祭祀)して徳星木星。前年参照)を拝しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、公孫卿が武帝に言いました「東莱山で神人を見ました。天子に会いたいと言っているようでした。」
武帝は緱氏城を訪ねて公孫卿を中大夫に任命し、東莱に移動して宿泊しました。しかし数日経っても神仙は現れず、大人(巨人)の足跡を見つけただけでした。
武帝は再び方士を送って神怪(神仙や怪異な事)を求めたり芝薬(仙草霊薬)を採取させました。派遣された方士は千人を数えます。
 
この年は旱害に襲われていました。
武帝は外出の名分がありませんでしたが、干害を口実に万里沙で祈祷を行いました。
資治通鑑』胡三省注によると、万里沙は径(南北の距離)が三百余里もある東莱曲城の砂地で、神祠が建てられていました。
 
夏四月、武帝が帰還し、途中で泰山を祀りました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
以前、黄河が瓠子で決壊しました武帝元光三年132年)。その後二十余年に渡って堤防が修築されず、梁と楚の地が特に大きな害を被っていました。
 
武帝は汲仁と郭昌の二卿に士卒数万人を動員させ、瓠子の決壊した場所を塞がせました。
武帝は泰山からの帰路、自ら瓠子に至って黄河の決壊した場所に臨み、白馬と玉璧を黄河に沈めました(祭祀を行って白馬と玉璧を黄河に捧げました)
また、群臣、従官で将軍以下の者全てに薪を背負わせ、河を塞ぐ工事を手伝わせました。『瓠子の歌』が作られます。
堤防の上に宮殿を築いて宣防宮と名づけました。
黄河の北に二本の渠(水路)を造り、水を導いて禹の旧迹(大禹の治水で造られた水路)を恢復させました。
 
この後、梁と楚の地が安寧を取り戻し、水災が無くなりました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
武帝長安に還りました。
武帝は巡行で通った地の囚人を赦し、孤独(孤児や身寄りがない老人)高年(老齢者)に一人当たり四石の米を下賜しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武帝が始めて越巫に命じて上帝や百鬼を祀らせ、雞卜を採用しました。
資治通鑑』胡三省注によると、「雞卜」というのは鷄(鶏)の骨を使う卜で、越の習俗です。卜の方法が詳しく紹介されていますが省略します。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
公孫卿が武帝に「仙人は楼に住むことを好みます」と言いました。
武帝長安に蜚廉、桂観を、甘泉に益寿、延寿観を造らせました。公孫卿に符節を渡し、設備を整えて神人を待たせます。
また、通天茎台を建ててその下に祠具(祭祀の道具)を置きました。
更に甘泉宮前殿を築き、諸宮室も拡大しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、蜚廉は神禽の名で風気を招くことができます。体は鹿、頭は爵(酒器)のようで、角と蛇尾をもち、豹のような模様がありました。
「桂観」は「桂館」ともいいます。
通天台は甘泉宮に立てられました。台の高さは五十丈あり、長安から二百里離れていましたが、長安城を望むことができました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
全燕の時代(燕国が独立していた時代。春秋戦国時代、燕国が真番や朝鮮を占領して属地としており、官吏を置いたり障塞を築きました。
資治通鑑』胡三省注によると、玄菟(漢が置いた郡の名です)は元々真番国でした。朝鮮には湿水、洌水、汕水の三水(川)があり、洌水で合流します。楽浪(漢が置いた郡の名です)や朝鮮はこの川にちなんで命名されたようです(「楽浪」は「浪」が海川と関係しています。「朝」は潮と同音で海川に繋がります。「鮮」は仙と同音です。現代中国語では「仙」と「汕」は異なる音ですが、古代は近い音だったのかもしれません)
 
秦が燕を滅ぼしてからは、真番や朝鮮は遼東郡の外徼(辺界)になりました。
しかし漢が興ると、真番や朝鮮の地が遠くて守るのが困難なため、遼東の旧塞を修築して浿水を境界とし、浿水以西を燕国に属させました。
後に燕王盧綰が漢に反して匈奴に入ると(高帝十二年195年)、燕人の衛満が亡命しました。党人千余人を集め、椎髻(頭髪を後ろで束ねる髪形の一つ)と蛮夷の服で東に走って塞を出ます。浿水を渡った衛満一行は、かつて秦が治めていて当時は空地になっていた上下障(恐らく燕秦が築いた北と南の長城の間という意味です)に住みました。やがて真番や朝鮮に役属(隷属)していた蛮夷や燕の亡命者が集まり、衛満を王にしました。この王朝を衛氏朝鮮といい、王険が都になりました。王険は後の平壤城です。
 
西漢恵帝や高后(呂太后の時代は、天下を平定したばかりだったため、遼東太守は衛満と約束して外臣としての地位を保たせました。塞外の蛮夷を保護し、漢の国境を侵させないこと、諸蛮夷の君が漢の天子に入見を欲しても朝鮮が妨害してはならないことを定めます。
漢が朝鮮の存続を認めたため、衛満は兵威や財物を利用して周辺の小邑を侵したり降していきました。真番や臨屯(後に漢が郡を置きます)等が服属し、朝鮮は方数千里を擁すようになります。
衛満の後、子を経て孫の右渠に王位が継承されました。朝鮮に誘われて亡命した漢人はますます増えています。
衛右渠は漢に入朝したことがなく、辰国(『資治通鑑』胡三省注によると、辰韓の国)が漢に上書して天子への謁見を求めた時も、朝鮮が道を塞いで通らせませんでした。
 
この年武帝元封二年・前109年)、漢が渉何(『資治通鑑』胡三省注によると、渉が姓で、春秋時代の晋に大夫渉佗がいました)を派遣して朝鮮を諭させました。
しかし衛右渠は最後まで武帝の詔に従おうとしません。
渉何が王険城を去って国境に至り、浿水に臨んだ時、渉何は御者を使って渉何を送るために同行していた朝鮮の裨王長を刺殺しました。
漢書西南夷両粤朝鮮伝(巻九十五)』の顔師古注は「長は裨王の名」としています。しかし『史記朝鮮列伝(巻百十五)』の注(正義)は、「裨王長」は「朝鮮の裨王」と「将士の長」という意味で、顔師古の説を「恐らく誤り(恐顔非也)」としています。
 
渉何は浿水を渡ってから塞に駆け入り、帰還して武帝に「朝鮮の将を殺しました」と報告しました。
武帝はこれを美名とみなして譴責を加えず、遼東東部都尉に任命しました。
しかし朝鮮は渉何を怨んでいたため、兵を発して遼東を襲い、渉何を殺しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、遼東東部都尉の治所は武次県です。
また、『漢書武帝紀』は「遼東東部都尉」を「遼東都尉」としています。
 
 
 
次回に続きます。