西漢時代133 武帝(五十二) 滇国平定 前109年(2)

今回は西漢武帝元封二年の続きです。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、甘泉房中に「芝九茎(九茎の芝)」が生えました。
資治通鑑』胡三省注によると、「甘泉房中」は甘泉宮の「齋房」で、斎戒を行う部屋です。
「芝九茎」は一つの根から九つの茎に分かれてできた霊芝です。「土の気が和したら芝草が生える」または「王者が慈仁なら芝草が生える」といわれていました。
 
武帝が詔を発しました「甘泉宮内に芝が生え、九莖に葉を連ならせている。上帝が広く降臨し、下房(宮殿。後宮も異にせず(日があたらない宮内も区別せず上帝が降臨し)、朕に弘休(「弘」は「大」、「休」は「美」の意味。「弘休」は大きな福を指します)を下賜した。よって天下に大赦し、雲陽都の百戸(雲陽県治所の周辺に住む百戸)に牛酒を与える。」
武帝大赦を行い、『芝房の歌』を作りました。
漢書武帝紀』の注によると、雲陽と甘泉には黄帝以来天を祭ってきた円丘があったようです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武帝が旱害を憂いました。
すると公孫卿が言いました「黄帝の時も封(土を盛って天を祀る儀式。前年参照)を行ったら天旱(ひでり)があり、三年乾封しました黄帝の時代も封を行ったら旱害があり、三年に渡って封土を乾かしました)。」
武帝が詔を下して言いました「天旱は乾封を意味しているのであろう(旱害が続いているのは、天が封土を乾かしたいのであろう)。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
秋、武帝が明堂を汶上(汶水沿岸)に造りました。
漢書武帝紀』は「明堂を泰山下に造った」としています。
 
[十一] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
武帝が天下の死罪(死刑囚)を募って兵にしました。
楼船将軍楊僕に指揮させて斉から渤海を渡らせます。また、左将軍荀彘も遼東から出撃させました。それぞれ朝鮮討伐に向かいます。
 
[十二] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
以前、武帝は王然于を滇国に派遣し、越を破って南夷を誅した兵威を利用して滇王に入朝を諭しました。
しかし滇王は数万人の衆を擁しており、東北に接する労深、靡莫という同姓の国とも協力し合っていたため、漢の命を聞かず、逆に労深と靡莫がしばしば漢の使者、吏卒を侵しました。
そこで武帝は将軍郭昌と中郎将衛広に巴蜀の兵を動員させ、労深と靡莫を撃滅しました。
二国を滅ぼした漢軍が滇国に臨むと、滇王は国を挙げて帰順し、漢の官吏を置くことと漢に入朝することを請いました。
こうして滇の地が平定され、益州郡が置かれます。
資治通鑑』胡三省注によると、益州郡は雒陽から五千六百里離れていました。
三国時代、蜀が益州郡を建寧郡に改名します(蜀後主建興三年225年。『三国志蜀書後主伝』)
 
武帝は滇王に王印を下賜して再び元の民を治めさせました。
 
当時、漢は両越(南越と東越)を滅ぼし、西南夷を平定し、十七の郡を置きました。
南海、鬱林、蒼梧、合浦、九真、日南、交趾、珠厓、儋耳(以上、旧越地)、武都、牂柯、越、沈黎、汶山、犍為、零陵、益州(以上、旧西南夷です(『資治通鑑』胡三省注より)
ただしそれらの地では今までの習俗に則って統治させ、賦税をかけませんでした。
南陽、漢中といった以前からある郡は、それぞれ遠近に応じて、できたばかりの郡の吏卒に食糧や幣物、伝車、馬被具(馬具)を供給しなければなりませんでした。しかも新しい郡ではしばしば小さな反乱が起きており、官吏が殺されました。漢は南方の吏卒を使ってそれを誅討しており、一年で万余人が動員されました。費用は全て大農が負担します。
大農は均輸や塩鉄専売による収入で不足した賦税を補ったので、これらの費用をまかなうことができましたが、兵が通った場所では県が軍需の供給を欠かさないだけで精一杯だったため、賦税の法を軽くすることはできなくなりました。
最後の部分は、『資治通鑑』の原文では「訾給毋乏而已,不敢言擅賦法矣」と書かれており、『史記平準書』が元になっています。『史記』の注(集解)は、「擅」は「経」に通じて「常(通常)」を意味するので、「供給に必要な物資を満足させるだけで充分で、経常(通常)な法則を顧みる余裕はなかった」と解釈しています。
漢書食貨志下』は「擅」を「軽」としています(不敢言軽賦法矣)。「(軍需の供給で精一杯だったため)税法の軽減を語ることはできなくなった」という意味です。私の訳では『漢書』を参考にしました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
この年、南陽の人御史中丞杜周を廷尉に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、杜氏は陶唐氏劉累(帝堯の子孫)の後代です。周代に唐杜氏や杜伯がいました。
 
杜周は外見は寛大でしたが、内実は苛酷で(原文「深次骨」。骨に至るほど厳しいという意味です)、政務のほとんどを張湯のやり方に倣いました。当時、詔獄(皇帝の命によって処理する案件)がますます多くなり、二千石で逮捕された者は、新旧の入れ替わりが繰り返されて常に百余人を下りませんでした。
廷尉が一年で処理する案件は千余章(『資治通鑑』胡三省注によると、「章」は諸獄の告発弾劾の書です。廷尉に提出されました)もありました。章の大きなものは、事件に関連して逮捕された者(連逮證案)が数百人に上り、小さいものでも数十人いました。遠ければ数千里離れていても獄に呼び出され、数百里程度離れた者なら近い方とされました。
廷尉と中都官が詔獄によって逮捕した者は六七万人もおり、更に吏によって(獄吏の審問等によって)数が増えて十余万人が逮捕されました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代134 武帝(五十三) 朝鮮遠征 前108年