西漢時代134 武帝(五十三) 朝鮮遠征 前108年

今回は西漢武帝元封三年です。
 
西漢武帝元封三年
癸酉 前108
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬十二月、雷が落ちました。
また、馬の頭のように大きな雹が降りました。
 
[] 漢が西域に送った使者がしばしば襲撃されました武帝元鼎六年111年参照)。中でも楼蘭や車師の漢に対する反発が激しかったため、武帝は討伐の兵を起こしました。
資治通鑑』からです。
武帝は将軍趙破奴に車師を攻撃させました。趙破奴は軽騎七百余と共に先に西域に入り、楼蘭王を捕虜にしてから車師国も破りました。
更に機に乗じて烏孫や大宛といった国にも兵威を示して困窮させました。
春正月甲申(中華書局『白話資治通鑑』は「甲申」を恐らく誤りとしています。下述します)武帝が趙破奴を浞野侯に封じました。
また、王恢も趙破奴を補佐して楼蘭を撃ったため、浩侯に封じました。
漢軍は酒泉から玉門まで亭障を連ねました。
 
趙破奴は武帝元狩二年(前121年)に従票侯(または「従驃侯」)に封じられました。
漢書景武昭宣元成功臣表』と『史記建元以来侯者年表』によると、元鼎五年(前112年)の酎金事件で侯位を失いましたが、今回、改めて封侯されました。『漢書景武昭宣元成功臣表』『史記建元以来侯者年表』は封侯の月日を明記していません。後に匈奴に捕えられ、逃げ帰ってから罪を犯して誅殺されるため、諡号はありません。
王恢は、『漢書景武昭宣元成功臣表』『史記建元以来侯者年表』では、元封四年(翌年)正月甲申に封侯されています。わずか三カ月で罪を犯して国を廃されるため、諡号はありません。
資治通鑑』は趙破奴と王恢の封侯の日を本年の「春正月甲申」としていますが、趙破奴の封侯は本年、王恢の封侯は翌年です、また、趙破奴の封侯の月日は不明で、王恢が「(翌年)春正月甲申」です。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
始めて角牴戯、魚龍、曼延といった競技雑技を作りました。
資治通鑑』胡三省注によると、角牴戯は力や技を競う格闘技のようなもので、魚龍と曼延は魚や獣の姿を真似た雑技のようなものです。詳しい解説は省略します。
 
京師から三百里内の者が観に来ました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
漢兵が朝鮮の国境に入りました。
朝鮮王衛右渠は兵を発して険阻な地で対抗します。
楼船将軍楊僕が斉兵七千人を率いて先に王険(朝鮮の都)に着きました。
衛右渠は城を守っていましたが、楼船軍(楊僕軍)が少ないことを探り知ったため、城から出て楊僕を撃ちました。
楊僕軍は敗散して山中に遁走します。
楊僕は十余日をかけて徐々に退散した士卒を求め、再び集結しました。
 
左将軍荀彘は浿水西の朝鮮軍を撃ちましたが、勝てませんでした。
 
武帝は二将に利がないのを見て、衛山を派遣して兵威によって衛右渠を諭しました。
衛右渠は使者(衛山)に会うと頓首して謝り、こう言いました「投降を願っていますが、二将が偽って臣を殺すのではないかと恐れました。今、信節(使者の印信符節)を見たので、改めて投降を請います。」
衛右渠は太子を漢に送って謝罪し、馬五千頭と軍糧を献上することにしました。
 
太子が率いる衆人は万余を数え、それぞれ武器を持って浿水を渡ろうとしました。
それを見た使者(衛山)と左将軍荀彘は異変を疑って太子にこう言いました「既に服して降ったのだから、人に兵(兵器)を持たせないように命じるべきです。」
太子も使者と左将軍が偽って自分を殺すのではないかと疑ったため、浿水を渡らず引き返してしまいました。
衛山が還って武帝に報告すると、武帝は衛山を誅殺しました。
 
左将軍荀彘が浿水沿岸の朝鮮軍を破って城下に進撃し、西北を包囲しました。
楼船将軍楊僕も合流して城南に陣を構えます。
しかし衛右渠が城を堅守したため、数カ月にわたって落とせませんでした。
荀彘は燕や代の士卒を率いており、多くが勁悍(強悍)でした。
楊僕の斉卒(斉兵)は既に敗亡困辱(敗北困窮して辱めを受けること)しており、卒(兵)は皆恐れ、将は心中で慚愧していたため、衛右渠を包囲してからも常に和節(和を求める符節。または和を求める態度)を持っていました。
荀彘が急攻を加えると、朝鮮の大臣達は秘かに隙を探して人を送り、個人的に楊僕に投降することを約束しました。しかし使者が往復して交渉を繰り返してもなかなか決断には至りません。
荀彘がしばしば楊僕と共同して攻撃する日を決めましたが、楊僕は朝鮮の大臣との約束があったため、軍を合流させませんでした。そこで荀彘も人を送り、機会を探して朝鮮に投降を勧めましたが、朝鮮は内心では楊僕に附いていたため荀彘の勧めに応じませんでした。
これらの事が原因で、両将の関係が悪化します。
荀彘は、楊僕には軍を失った罪があるうえ、今は朝鮮と個人的に関係を改善しており、しかも朝鮮が漢に降ろうとしないため、反計(謀反)を抱きながら実行できないのではないか(朝鮮と結んで謀反する機会を窺っているのではないか)と疑いました。
 
武帝は二将が城を包囲しているのに行動が一致せず、戦が久しくなっても決着がつかないため、済南太守公孫遂を派遣して状況を正そうとしました。公孫遂には状況に応じて自由に采配する権限を与えます。
公孫遂が到着すると、荀彘が言いました「朝鮮は落とせるはずですが、久しく攻略できないのは、楼船が期日になってもしばしば合流しなかったからです。」
荀彘はかねてから抱いている疑いを詳しく話して言いました「今このようになっているのに取らなかったら(手を打たなかったら。原文「今如此不取」)、恐らく大害となります。」
公孫遂は荀彘の言葉に納得し、事を計るためという理由で符節を持って楊僕を左将軍営に招きました。楊僕が来るとすぐ荀彘の麾下(部下)に命じて楊僕を逮捕させ、その軍を吸収します。
しかし公孫遂がこれを武帝に報告すると、武帝は公孫遂を誅殺しました。
漢書西南夷両粤朝鮮伝(巻九十五)』は「許遂(公孫遂を赦した)」としていますが、『史記朝鮮列伝(巻百十五)』では「誅遂(公孫遂を誅殺した)」となっています。荀彘も後に「功を争って嫉妬し、作戦を誤らせた」という罪で誅殺されるため、『資治通鑑』は『史記』に従っています(胡三省注参照)
 
荀彘は両軍を合併して朝鮮を急攻しました。
朝鮮の相路人(人名)、相韓陰(または「韓陶」)、尼谿相参、将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、戎狄は官紀(官制)を知らないため、全て「相」と呼んだようです)が相談して言いました「元々楼船に降ろうと思ったが、楼船は最近捕えられ、左将軍一人が両軍を合わせて将になった。戦もますます急を告げており、恐らく戦い続けることはできない。それなのに王は降ろうとしない。」
韓陰、王、路人は逃亡して漢に降りました。しかし路人は道中で死にました。
 
夏、尼谿参(尼谿相参)が人を使って朝鮮王衛右渠を殺し、漢軍に降りました。
しかし王険城はまだ落ちていないため、衛右渠に仕えていた大臣成己がまた漢に反して漢の吏卒を攻めました。
荀彘は衛右渠の子長と降相路人の子最を送って朝鮮の民を告諭させ、成己を誅殺しました。
こうして朝鮮が平定され、漢は楽浪、臨屯、玄菟、真番の四郡を置きました。
資治通鑑』胡三省注によると、楽浪郡の治所は朝鮮県で、衛右渠が都とした場所です。
臨屯郡の治所は東県で、長安から六千百三十八里離れており、十五県を治めました。
玄菟郡は元高句驪です。治所は沃沮城ですが、後に夷貊の侵攻を受けて句驪西北に郡を遷しました。
真番郡の治所は霅県で、長安から七千六百四十里離れており、十五県を治めました。
臨屯と真番の二郡は後に廃されます。
 
武帝が朝鮮から降った者を封侯しました。
以下、『漢書景武昭宣元成功臣表』『史記建元以来侯者年表』と『資治通鑑』胡三省注からです。
本年四月丁卯、王を平州侯に封じました。死後、子がいないため国が廃されました。諡号はわかりません。
同日、韓陰を萩苴侯(または「荻苴侯」)に封じました。諡号は分かりません。
本年六月丙辰、参を清侯に封じました。後に罪を犯して下獄され、病死するため、諡号はありません。
 
元封四年(翌年)三月癸未、衛長を幾侯に封じました。『漢書』と『史記』の表では「幾侯張洛(衛張洛)」となっています。後に謀反して国を廃されるため、諡号はありません。
元封四年三月壬寅、最を涅陽侯に封じました。最は父路人が漢に降るために死んで功を立てたと見なされました。『漢書』は最の諡号を康侯としていますが、『史記』では路人の諡号が康侯で、最の諡号は不明です。最の死後、子がいないため国が廃されました。
 
左将軍荀彘が呼び戻されて長安に還りました。
武帝は楊僕と功を争って嫉妬し、作戦を誤らせた罪で荀彘を棄市に処しました。
荀彘に捕えられていた楼船将軍楊僕も、兵が列口(『資治通鑑』胡三省注によると、列水が海に入る場所)に至った時、荀彘の軍を待つべきだったのに勝手に進軍して多くの兵を失ったため、本来は誅殺されるところでしたが、贖罪して庶人になりました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
秋七月、膠西王劉端(または「劉瑞」。諡号は于王)が死にました。
 
劉端は景帝の子です。非常に驕恣(驕慢横柄)な人物で、しばしば法を犯しており、二千石の官員で殺傷された者も多数いました武帝元朔五年・前124年参照)
 
漢書景十三王伝(巻五十三)』によると、劉端には子がいなかったため、膠西王国は廃されて膠西郡になりました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
武都氐(氐族。『資治通鑑』胡三省注によると、西戎の別種です)が反しました。
漢は武都氐を分けて一部を酒泉に遷しました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代135 武帝(五十四) 十三州 前107~106年