西漢時代134 武帝(五十三) 朝鮮遠征 前108年
癸酉 前108年
冬十二月、雷が落ちました。
また、馬の頭のように大きな雹が降りました。
『資治通鑑』からです。
更に機に乗じて烏孫や大宛といった国にも兵威を示して困窮させました。
また、王恢も趙破奴を補佐して楼蘭を撃ったため、浩侯に封じました。
漢軍は酒泉から玉門まで亭障を連ねました。
『漢書・景武昭宣元成功臣表』と『史記‧建元以来侯者年表』によると、元鼎五年(前112年)の酎金事件で侯位を失いましたが、今回、改めて封侯されました。『漢書・景武昭宣元成功臣表』『史記‧建元以来侯者年表』は封侯の月日を明記していません。後に匈奴に捕えられ、逃げ帰ってから罪を犯して誅殺されるため、諡号はありません。
始めて角牴戯、魚龍、曼延といった競技・雑技を作りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、角牴戯は力や技を競う格闘技のようなもので、魚龍と曼延は魚や獣の姿を真似た雑技のようなものです。詳しい解説は省略します。
京師から三百里内の者が観に来ました。
漢兵が朝鮮の国境に入りました。
朝鮮王・衛右渠は兵を発して険阻な地で対抗します。
衛右渠は城を守っていましたが、楼船軍(楊僕軍)が少ないことを探り知ったため、城から出て楊僕を撃ちました。
楊僕軍は敗散して山中に遁走します。
楊僕は十余日をかけて徐々に退散した士卒を求め、再び集結しました。
武帝は二将に利がないのを見て、衛山を派遣して兵威によって衛右渠を諭しました。
衛右渠は使者(衛山)に会うと頓首して謝り、こう言いました「投降を願っていますが、二将が偽って臣を殺すのではないかと恐れました。今、信節(使者の印信符節)を見たので、改めて投降を請います。」
衛右渠は太子を漢に送って謝罪し、馬五千頭と軍糧を献上することにしました。
太子が率いる衆人は万余を数え、それぞれ武器を持って浿水を渡ろうとしました。
それを見た使者(衛山)と左将軍・荀彘は異変を疑って太子にこう言いました「既に服して降ったのだから、人に兵(兵器)を持たせないように命じるべきです。」
太子も使者と左将軍が偽って自分を殺すのではないかと疑ったため、浿水を渡らず引き返してしまいました。
楼船将軍・楊僕も合流して城南に陣を構えます。
しかし衛右渠が城を堅守したため、数カ月にわたって落とせませんでした。
荀彘は燕や代の士卒を率いており、多くが勁悍(強悍)でした。
楊僕の斉卒(斉兵)は既に敗亡困辱(敗北困窮して辱めを受けること)しており、卒(兵)は皆恐れ、将は心中で慚愧していたため、衛右渠を包囲してからも常に和節(和を求める符節。または和を求める態度)を持っていました。
荀彘が急攻を加えると、朝鮮の大臣達は秘かに隙を探して人を送り、個人的に楊僕に投降することを約束しました。しかし使者が往復して交渉を繰り返してもなかなか決断には至りません。
荀彘がしばしば楊僕と共同して攻撃する日を決めましたが、楊僕は朝鮮の大臣との約束があったため、軍を合流させませんでした。そこで荀彘も人を送り、機会を探して朝鮮に投降を勧めましたが、朝鮮は内心では楊僕に附いていたため荀彘の勧めに応じませんでした。
これらの事が原因で、両将の関係が悪化します。
荀彘は、楊僕には軍を失った罪があるうえ、今は朝鮮と個人的に関係を改善しており、しかも朝鮮が漢に降ろうとしないため、反計(謀反)を抱きながら実行できないのではないか(朝鮮と結んで謀反する機会を窺っているのではないか)と疑いました。
公孫遂が到着すると、荀彘が言いました「朝鮮は落とせるはずですが、久しく攻略できないのは、楼船が期日になってもしばしば合流しなかったからです。」
荀彘はかねてから抱いている疑いを詳しく話して言いました「今このようになっているのに取らなかったら(手を打たなかったら。原文「今如此不取」)、恐らく大害となります。」
公孫遂は荀彘の言葉に納得し、事を計るためという理由で符節を持って楊僕を左将軍営に招きました。楊僕が来るとすぐ荀彘の麾下(部下)に命じて楊僕を逮捕させ、その軍を吸収します。
『漢書・西南夷両粤朝鮮伝(巻九十五)』は「許遂(公孫遂を赦した)」としていますが、『史記・朝鮮列伝(巻百十五)』では「誅遂(公孫遂を誅殺した)」となっています。荀彘も後に「功を争って嫉妬し、作戦を誤らせた」という罪で誅殺されるため、『資治通鑑』は『史記』に従っています(胡三省注参照)。
荀彘は両軍を合併して朝鮮を急攻しました。
朝鮮の相・路人(人名)、相・韓陰(または「韓陶」)、尼谿相・参、将軍・王唊(『資治通鑑』胡三省注によると、戎狄は官紀(官制)を知らないため、全て「相」と呼んだようです)が相談して言いました「元々楼船に降ろうと思ったが、楼船は最近捕えられ、左将軍一人が両軍を合わせて将になった。戦もますます急を告げており、恐らく戦い続けることはできない。それなのに王は降ろうとしない。」
韓陰、王唊、路人は逃亡して漢に降りました。しかし路人は道中で死にました。
夏、尼谿参(尼谿相・参)が人を使って朝鮮王・衛右渠を殺し、漢軍に降りました。
荀彘は衛右渠の子・長と降相・路人の子・最を送って朝鮮の民を告諭させ、成己を誅殺しました。
こうして朝鮮が平定され、漢は楽浪、臨屯、玄菟、真番の四郡を置きました。
玄菟郡は元高句驪です。治所は沃沮城ですが、後に夷貊の侵攻を受けて句驪西北に郡を遷しました。
臨屯と真番の二郡は後に廃されます。
武帝が朝鮮から降った者を封侯しました。
元封四年三月壬寅、最を涅陽侯に封じました。最は父・路人が漢に降るために死んで功を立てたと見なされました。『漢書』は最の諡号を康侯としていますが、『史記』では路人の諡号が康侯で、最の諡号は不明です。最の死後、子がいないため国が廃されました。
武帝は楊僕と功を争って嫉妬し、作戦を誤らせた罪で荀彘を棄市に処しました。
荀彘に捕えられていた楼船将軍・楊僕も、兵が列口(『資治通鑑』胡三省注によると、列水が海に入る場所)に至った時、荀彘の軍を待つべきだったのに勝手に進軍して多くの兵を失ったため、本来は誅殺されるところでしたが、贖罪して庶人になりました。
漢は武都氐を分けて一部を酒泉に遷しました。
次回に続きます。