西漢時代142 武帝(六十一) 李延年 前100年(1)

今回から紀元前一世紀に入ります。
紀元前一世紀は中国の北方を脅かしてきた匈奴が衰弱します。しかし漢帝国武帝の時代が終わると急速に衰退し始め、外戚(皇后の一族)が権力を握るようになり、次の世紀の頭に西漢帝国は滅んでしまいます。
まずは西漢武帝天漢元年です。二回に分けます。
 
西漢武帝天漢元年
辛巳 前100
 
資治通鑑』胡三省注によると、当時は頻繁に旱害が起きて苦しんでいたため、天漢に改元して甘雨(農業に必要な雨)を求めました。『詩経大雅』に『雲漢』の詩があり、西周宣王が旱災に遭遇した時、徳を修めて政治に勤めたおかげで雨を招いたことを歌っているため、「天漢」を年号にしました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、武帝が甘泉を行幸して泰畤で郊祭しました。
三月、武帝が河東を行幸して后土を祀りました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
匈奴が拘留していた漢の使者や捕虜を釈放し、更に使者を送って(貢物を)献上しました。
匈奴単于(且鞮侯単于の義を称賛した武帝は、中郎将蘇武(『漢書帝紀は「栘中監蘇武」としています。栘園の馬厩を管理する官、または馬鷹犬や狩猟の道具を管理する官のようです)匈奴に派遣して漢に留められていた匈奴の使者を送り返すことにしました。併せて厚い礼物も贈って単于の善意に応えます。
蘇武は副使の中郎将張勝、假吏常恵等と共に匈奴に向かいました。
資治通鑑』胡三省注によると、「假使」の「假」は「兼任」を意味します。使者の任を兼任することになった官吏です。
常姓は黄帝の相常先の子孫といわれています。
 
蘇武等が匈奴に入って礼物を単于に贈りました。ところが単于の態度は驕慢で、漢が期待したものではありませんでした。
 
ちょうどこの頃、匈奴の緱王と長水の人虞常等および衛律(下述)の指揮下にいて匈奴に降った者が秘かに単于の母閼氏を奪って漢に帰る陰謀を考えていました。
資治通鑑』胡三省注によると、緱王は匈奴渾邪王の姉の子です。渾邪王と共に漢に降りましたが、浞野侯趙破奴と一緒に匈奴に留められました。
虞常も匈奴に留められていたようです。長水は川の名で、杜県白鹿原を出て北の霸水に入りました。その地には匈奴の騎兵が駐屯していたようです。
 
衛律の父は長水の胡人匈奴人)でした。衛律は協律都尉李延年と仲が良かったため、李延年の推薦によって使者として匈奴に来ました。しかし漢に帰る時、李延年の家が逮捕されたため、逃走して匈奴に降りました。
単于は衛律を気に入って国事を謀り、丁霊王に立てました。
 
李延年は武帝元狩三年(前120年)に登場しました。武帝に寵愛された李夫人の弟です。以下、『漢書』を元に簡単に紹介します。
まずは『外戚伝上(巻九十七上)』からです。
孝武李夫人は倡(楽人)として武帝に進められました。
それ以前に李夫人の兄李延年が音楽に精通しており、歌舞が得意だったため、武帝に愛されました。李延年が新声変曲(新曲)を作るたびに、聞いた人は皆感動します。
ある時、李延年が武帝に侍って舞を披露し、こう歌いました「北方に佳人(美人)あり、絶世かつ独立(無双)である。一顧して人の城を傾け、再顧して人の国を傾ける。傾城と傾国を知らないのではない。佳人を再び得るのが難しいのだ(城や国が惜しくないのではない。美人を得るのが難しいから傾城、傾国も悔いとしないのだ。原文「北方有佳人,絶世而独立,一顧傾人城,再顧傾人国。寧不知傾城與傾国,佳人難再得」)。」
武帝が嘆息して言いました「すばらしい(善)!この世にそのような人がいるのか?」
そこで平陽主(平陽公主。武帝の姉)が李延年の妹について話しました。
武帝が召して接見すると、確かに妙麗で舞を得意としました。
李延年の妹は幸を得て夫人となり、一男を産みます。後の昌邑哀王です。
しかし李夫人は若くして死んだため、武帝は憐れんで甘泉宮に肖像画を置きました。
衛思后(衛子夫。思后は諡号です)が廃されて四年後に武帝も死ぬと(衛子夫は武帝征和二年91年に自殺し、武帝は後元二年87年に死にます)、大将軍霍光(霍去病の異母弟)武帝のかねてからの思いをくんで李夫人を配食(同じ廟で合祀すること)し、尊号を贈って孝武皇后にしました。(略)
李夫人が死んだ時、武帝は后礼(皇后の礼)で埋葬しました。その後、武帝は李夫人の兄李広利を貳師将軍に任命し、海西侯に封じました。李延年は協律都尉になりました。(略)
後に李延年の弟李季が後宮を姦乱した罪を問われたため、李広利は匈奴に降り(下述します)、李延年と李季の家は族滅されました。
 
次は『佞幸伝(巻九十三)』からです。
李延年は中山の人で、本人も父母兄弟も倡でした。
李延年は法に触れて腐刑に処され、狗監(天子の犬を管理する官)で働いていましたが、妹が武帝の幸を得て李夫人になりました。(略)
李夫人が昌邑王を生んだため、李延年は協律都尉になり、二千石の印綬を佩して武帝と共に卧起(起居。生活)するようになりました。その愛幸は韓嫣武帝の寵臣)に並びます。
しかし久しくして李延年の弟李季が中人(宮女)と乱し(姦通)し、皇宮に出入りする態度が驕恣(驕慢放縦)になりました。
李夫人が死んでから武帝の李氏に対する愛情も薄くなっていたため、武帝は李延年兄弟と宗族を誅滅しました。
 
以上が『漢書』の李延年に関する記述です。
衛律は李氏が族滅された時、匈奴に走りました。本年武帝天漢元年100年)には衛律が既に匈奴に居るので、李氏が族滅されたのはそれ以前の事です。但し李広利は西域遠征で功績を立てたばかりで、匈奴に降るのは征和三年(前90年)の事なので、族滅されたのは李延年と李季の家族だけで、李広利は含まれなかったようです。
 
 
 
次回に続きます。