西漢時代142 武帝(六十一) 李延年 前100年(1)
今回から紀元前一世紀に入ります。
辛巳 前100年
『資治通鑑』胡三省注によると、当時は頻繁に旱害が起きて苦しんでいたため、天漢に改元して甘雨(農業に必要な雨)を求めました。『詩経・大雅』に『雲漢』の詩があり、西周宣王が旱災に遭遇した時、徳を修めて政治に勤めたおかげで雨を招いたことを歌っているため、「天漢」を年号にしました。
匈奴単于(且鞮侯単于)の義を称賛した武帝は、中郎将・蘇武(『漢書・昭帝紀』は「栘中監・蘇武」としています。栘園の馬厩を管理する官、または馬鷹犬や狩猟の道具を管理する官のようです)を匈奴に派遣して漢に留められていた匈奴の使者を送り返すことにしました。併せて厚い礼物も贈って単于の善意に応えます。
『資治通鑑』胡三省注によると、「假使」の「假」は「兼任」を意味します。使者の任を兼任することになった官吏です。
単于は衛律を気に入って国事を謀り、丁霊王に立てました。
ある時、李延年が武帝に侍って舞を披露し、こう歌いました「北方に佳人(美人)あり、絶世かつ独立(無双)である。一顧して人の城を傾け、再顧して人の国を傾ける。傾城と傾国を知らないのではない。佳人を再び得るのが難しいのだ(城や国が惜しくないのではない。美人を得るのが難しいから傾城、傾国も悔いとしないのだ。原文「北方有佳人,絶世而独立,一顧傾人城,再顧傾人国。寧不知傾城與傾国,佳人難再得」)。」
武帝が召して接見すると、確かに妙麗で舞を得意としました。
李延年の妹は幸を得て夫人となり、一男を産みます。後の昌邑哀王です。
衛思后(衛子夫。思后は諡号です)が廃されて四年後に武帝も死ぬと(衛子夫は武帝征和二年・前91年に自殺し、武帝は後元二年・前87年に死にます)、大将軍・霍光(霍去病の異母弟)は武帝のかねてからの思いをくんで李夫人を配食(同じ廟で合祀すること)し、尊号を贈って孝武皇后にしました。(略)
次は『佞幸伝(巻九十三)』からです。
李延年は中山の人で、本人も父母兄弟も倡でした。
しかし久しくして李延年の弟・李季が中人(宮女)と乱し(姦通)し、皇宮に出入りする態度が驕恣(驕慢放縦)になりました。
以上が『漢書』の李延年に関する記述です。
衛律は李氏が族滅された時、匈奴に走りました。本年(武帝天漢元年・前100年)には衛律が既に匈奴に居るので、李氏が族滅されたのはそれ以前の事です。但し李広利は西域遠征で功績を立てたばかりで、匈奴に降るのは征和三年(前90年)の事なので、族滅されたのは李延年と李季の家族だけで、李広利は含まれなかったようです。
次回に続きます。