西漢時代143 武帝(六十二) 蘇武 前100年(2)

今回は西漢武帝天漢元年の続きです。
 
[(続き)] 『資治通鑑』からです。
虞常は漢にいた時から副使の張勝と知り合いだったため、個人的に張勝を訪ねてこう言いました「漢の天子は衛律をとても怨んでいると聞いた。常(私)は漢のために弩を伏せて彼を射殺すことができる(衛律の部下は漢に帰りたいと思っていますが、衛律自身は単于に重用されているので、謀反の意思はありません)。私の母と弟は漢にいる。賞賜を蒙ることができたら幸いだ。」
張勝はこれに同意して貨物を虞常に与えました。
一月余してから、単于が狩りに出ました。閼氏と子弟だけが残されます。
そこで虞常等七十余人が行動を起こそうとしましたが、一人が夜の間に逃走して告発しました。
単于の子弟が兵を発して戦い、緱王等は全て死んで虞常は生け捕りにされました。
 
単于は衛律に事件を調査させました。
それを聞いた張勝は事前に虞常と話した陰謀が発覚することを恐れて蘇武に詳しく報告しました。
蘇武が言いました「事がこのようになってしまったのだから、必ず我々にも及ぶだろう。犯されてから死んだら匈奴の刑罰を受けて辱しめられてから死んだら)重ねて国を裏切ることになる。」
蘇武は自殺しようとしましたが、張勝と常恵が共に止めました。
 
虞常は張勝が陰謀に関わっていたことを供述しました。
怒った単于は諸貴人を招いて討議し、漢の使者を殺そうとしました。
しかし左伊秩訾(『資治通鑑』胡三省注によると匈奴の官号、または王号です)がこう言いました「単于を謀ったらどうやって刑を加えるのですか(原文「即謀単于,何以復加」。張勝と虞常は衛律暗殺を謀りました。衛律暗殺の罪で使者を全員死刑にしたら、単于を暗殺しようとした時、それ以上の刑がなくなってしまうという意味です)。彼等を全て投降させるべきです。」
単于は衛律を送って蘇武に投降を受け入れさせました。
すると蘇武は常恵等に「節を屈して(曲げて)(使命)を辱めたら、生きていても何の面目があって漢に帰ることができるだろう!」と言って、佩刀で自分を刺しました。
衛律は驚いて自ら蘇武を抱きかかえ、急いで医者を呼びました。(医者は)地面を掘って坎(穴)を造り、熅火(炎がない小さい火を集めたもの。炭火)を置いて蘇武をその上に寝かせ、背を踏んで血を流れさせます。
気を失った蘇武は半日後に息を返しました。常恵等は痛哭し、蘇武を輿に乗せて営に還りました。
単于は蘇武の勇壮な忠節を称賛し、朝も夜も人を送って蘇武を慰問しました。
張勝は逮捕されました。
 
蘇武の傷が善くなってきた頃、単于は使者を送って蘇武に投降を誘いました。
ちょうど虞常の死刑が決まったため、これを利用して蘇武を帰順させることにしました。そこで、衛律が剣で虞常を斬ってからこう言いました「漢は張勝に単于の近臣(衛律)を謀殺させようとした。これは死刑に値する。しかし単于は降伏する者を募って罪を赦すことにした。」
衛律は剣を持ち上げて張勝を撃とうとしました。張勝は投降を請います。
衛律が蘇武に言いました「副使に罪があるのだから相坐連座すべきだ。」
蘇武が言いました「私は本から謀に関わっておらず、親属でもない。なぜ相坐する必要があるのだ。」
衛律が再び剣を挙げて蘇武を斬るふりをしましたが、蘇武は動きませんでした。
衛律が言いました「蘇君よ、律(私)は以前、漢に背いて匈奴に帰順したが、幸いにも大恩を蒙り、号を下賜されて王を称すことになった。今は衆数万を擁し、馬畜が山を満たし、このように富貴を得ている。蘇君が今日投降すれば、明日にはこうなれるだろう。空しくその身で草野を肥えさせて(その身を草野の肥料にして。その身を草野で朽ちさせて。原文「空以身膏草野」)、誰がそれを知るだろうか。」
蘇武は何も言いません。
衛律がまた言いました「君が私に従って降れば、君と兄弟になろう。今もし私の計を聴かなかったら、今後、また私に会いたいと思っても、どうして会えるか。」
すると蘇武は衛律を罵ってこう言いました「汝は人の臣子でありながら恩義を顧みず、主に反して親に背き、蛮夷において降虜となった。汝に会って何の意味があるというのだ!そもそも単于は汝を信任して人の死生を決めさせているのに、汝は公正な態度を採らず(不平心持正)、逆に両主を闘わせて禍敗を観ようとしている。南越は漢の使者を殺したために屠されて(滅ぼされて)九郡となった。宛王は漢の使者を殺したために頭が北闕に掲げられた。朝鮮は漢の使者を殺したために即時誅滅された。ただ匈奴だけはそのような事がなかったのだ。汝は私が降らないことを明確に知っているのに、両国を互いに戦わせようとしている。匈奴の禍は私から始まるだろう。」
衛律は蘇武が脅しによって意思を変えることがないと知り、単于に報告しました。
単于はますます蘇武を帰順させたくなり、大窖(地下の倉庫)の中に幽閉して飲食の供給を絶ちました。
 
当時は雪が降っていました。
蘇武は横になると、飢えをしのぐために雪と旃毛(服の毛皮)を一緒にかじって呑みこみました。
数日経っても蘇武が死ななかったため、匈奴は神だと思いました。そこで蘇武を北海の人がいない場所に移し、羝(牡羊)を放牧させて「羝が乳を出したら帰らせよう」と言いました。
蘇武の官属常恵等もそれぞれ別の場所に置かれました。
 
蘇武の抑留は昭帝始元六年(前81年)まで続きます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
天が白氂を降らせました。
氂は固くて湾曲した毛です。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏、大旱に襲われました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
五月、天下に大赦しました。
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
秋、城門を閉じて大搜しました。
「大捜」は犯罪者の捜索や取り締まりを意味します。
漢書』注(臣瓉)によると、六月に踰侈(過度な奢侈)を禁じ、七月に城門を閉じて大搜しました。大捜の対象は踰侈の者だったと考えられます。
 
但し、異なる見解もあります。『資治通鑑』本文にはこの記述がありませんが、胡三省注はこう書いています「踰侈の者を捜索するのなら、城門を閉じて大搜する必要はないので、姦人を捜索したはずだ。」
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
讁戍(罪を犯して徴発された守備兵)を動員して五原郡に駐屯させました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
浞野侯趙破奴武帝太初二年103年参照)匈奴から逃げ帰りました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、済南太守王卿が御史大夫になりました。
 
 
 
次回に続きます。