西漢時代144 武帝(六十三) 李陵 前99年(1)

今回は西漢武帝天漢二年です。二回に分けます。
 
西漢武帝天漢二年
壬午 前99
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
春、武帝が東海に行幸しました。
還りに回中を通りました。
 
[] 『漢書武帝紀』と資治通鑑』からです。
夏五月、武帝が貳師将軍李広利に三万騎を率いて酒泉から出撃させました。天山で右賢王を撃ちます。
資治通鑑』胡三省注によると、天山は祈連山を指します。匈奴は天を「祈連」と呼びました。別名を白山といいます。
 
李広利は匈奴の首虜一万余級を得て引き上げました。
しかし匈奴の大軍が李広利軍を包囲しました。漢軍は数日にわたって食糧が欠乏し、死傷者も増えます。
假司馬(「假」は代理の意味です)を勤める隴西の人趙充国と壮士百余人が漢軍を救いに来て包囲を破ったため、李広利は兵を率いて趙充国の後を追い、苦境を脱しました。漢の兵は十分の六七が命を落とし、趙充国の体も二十余の傷を負いました。
 
李広利が状況を武帝に報告すると、武帝は詔を発して趙充国を行在所(帝がいる場所)に招きました。武帝自ら接見し、その傷を見て嘆息が止みませんでした。趙充国は中郎に任命されます。
 
漢が再び因杅将軍公孫敖を西河から出撃させました。公孫敖は強弩都尉路博徳と涿涂山(または「涿邪山」)で合流します。
しかし戦果はありませんでした。
 
李広には李陵という孫がおり、侍中になりました(『漢書・李広蘇建伝(巻五十四)』によると、李陵の父は李当戸といいます)。騎射を得意とし、人を愛して士にへりくだることができたため、武帝は李陵に李広の気風があると思い、騎都尉に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、騎都尉は比二千石です。奉車都尉、駙馬都尉、騎都尉は武帝によって置かれました。東晋時代になって奉車と騎都尉は除かれ、駙馬だけが残ります。駙馬は尚主(公主を娶った者)がなりました。
 
武帝は李陵に丹陽と楚の人五千人を指揮させました。酒泉、張掖一帯で射術を教えて匈奴に備えます。
貳師将軍李広利が匈奴を撃った時、武帝が詔を発して李陵を招きました。李広利のために輜重を指揮させるつもりです。
しかし李陵は叩頭してこう請いました「臣が指揮する屯辺の者は全て荊楚の勇士や奇材の剣客です。その力は虎を捕まえ、矢を射たら必ず命中させることができるので、自ら一隊となって蘭于山南に至り、単于の兵を分散させて、匈奴が)貳師軍だけに向かわせないようにする任務をいただきたいです。」
武帝が言いました「将は互いに属すことを嫌うのか(人の下になることを嫌うのか。原文「将悪相属邪」)わしは多くの兵を発したから、汝に与える騎馬はない。」
李陵が言いました「騎馬を必要とすることはありません。臣は少(少数)で衆(多数)を撃つことを願います。歩兵五千人で単于庭に至ってみせます。」
武帝は李陵の勇壮な言葉を認めて出征に同意しました。路博徳(涿涂山付近にいます)に詔を発して途中で兵を率いて李陵軍を迎えさせます。
しかし路博徳も李陵の後援になることを羞じとしたため、こう上奏しました「今は秋なので匈奴の馬が肥えています。戦うべきではありません。李陵を留めて春になってから共に出撃するべきです。」
武帝は上奏を見て怒り、李陵が出征を後悔したために路博徳に上書させたのではないかと疑いました。そこで詔によって路博徳に西河の匈奴を撃たせ、李陵には九月に出発するように命じました。李陵は遮虜障(『資治通鑑』胡三省注によると、遮虜障は張掖郡居延県にあります。路博徳が築きました)から出撃し、東浚稽山南の龍勒水沿岸に出て匈奴を探させ、見つけられなかったら帰還し、受降城で兵を休ませることになりました。
 
秋九月、李陵が自分の歩卒五千人を率いて居延を出ました。北に三十日進んで浚稽山に陣営を置きます。経由した山川地形を地図にし、麾下(部下)の騎兵陳歩楽を長安に還らせて武帝に報告しました。
武帝に召された陳歩楽は李陵が将率(将領)になって士卒の死力を得ている様子を報告します。
武帝は喜んで陳歩楽を郎に任命しました。
 
李陵は浚稽山に至ってから匈奴単于の軍に遭遇しました。匈奴騎兵約三万が李陵軍を包囲します。
李陵は二つの山の間に駐軍し、大車で営を築いていました。自ら士を率いて営の外に陣を構え、前列の兵には戟と盾を、後列の兵には弓と弩を持たせました。
匈奴は漢軍が少ないのを見て直接前進し、漢営に迫りました。
李陵が迎え撃って搏戦(近接戦)し、千弩を一斉に発すると、弦の音に応じて匈奴兵が倒れていきます。匈奴兵は走って山上に還りましたが、漢軍が追撃して数千人を殺しました。
単于は大いに驚いて左右地の兵八万余騎を集めました。大軍が李陵を攻撃します。
李陵は戦いながら兵を率いて南に移動し、数日で山谷の中に入りました。
漢軍は連戦しており、士卒の多くが矢傷を負っていましたが、三カ所に傷を負った者は輦(車)に乗り、二カ所に傷を負った者は車を動かし、一カ所に傷を負った者は兵器を持って戦い、また三千余級を斬首しました。
更に兵を率いて東南に向かい、龍城の旧道を進んで四五日経ってから、大沢の葭葦(葦)の中に至りました。
そこで匈奴は風上から火を放ちました。
しかし李陵も軍中に命じて火を放ち、先に葭葦を焼いて延焼を防ぎました。
 
その後、南に向かって山下に至りました。単于は南山の上におり、子に騎兵を指揮して李陵を撃たせます。
李陵軍は樹木の間で歩戦し、また数千人を殺しました。漢軍が連弩で単于を射たため、単于は山を下りて逃走しました。
この日、漢軍が得た捕虜がこう言いました「単于は『これは漢の精兵だ。撃っても下せない。日夜、我々を南に誘って(漢の)塞に近づけているが、伏兵があるのではないか?』と言いました。しかし諸当戸(『資治通鑑』胡三省注によると、匈奴の官は左右当戸や骨都侯等、二十四の長がいました)や君長は皆こう言いました『単于が自ら数万騎を指揮しているのに、漢の数千人を撃って滅ぼせなかったら、今後、辺臣を使うことができなくなり、漢もますます匈奴を軽視するようになるでしょう。再び山谷の間で力戦しましょう。平地まではまだ四五十里あります。それでも破れなかったら還りましょう。』」
 
この時、李陵軍はますます困窮しており、匈奴騎兵が圧倒的に多数でしたが、一日に数十合も戦って二千余人を傷殺しました。
匈奴は利がないと判断して退却しようとします。
しかし李陵軍の候管敢が校尉に辱しめられたため、逃亡して匈奴に降り、こう言いました「李陵軍には後救(後援)がなく、射る矢も全て尽きています。ただ将軍麾下および校尉の成安侯韓延年がそれぞれ八百人を率いて前行(先導)となっており、黄色と白を幟にしています。精騎を出してこれらを射れば必ず破ることができます。」
資治通鑑』胡三省注によると、軍には部曲(部隊)があり、部には校尉がいました。部の下に曲があり、曲には軍候が一人いました。
韓延年は父韓千秋が南越討伐で死んだため封侯されました武帝元鼎五年112年)
 
単于は管敢を得て大喜びしました。匈奴騎兵に命じて一斉に漢軍を攻撃させ、激しくこう叫びます「李陵、韓延年、速く降れ!」
匈奴軍は道を塞いで李陵を急攻しました。李陵は谷の中にいます。山上の匈奴軍は四面から雨のように矢を降らせました。
 
漢軍は南に進みました。
鞮汗山に至らない所で一日に五十万の矢を使い果たしまします。漢軍は車を棄てて去りました。
漢軍の士卒はまだ三千余人いましたが、(矢が尽きて刀も折れたため)車輻を斬って武器にするしかありません。軍吏も尺刀(短刀)を手にしています。
漢軍は峡谷に入りました。
 
単于は後ろの道を絶ち、曲がりくねった山道の上から石を落としました。漢の士卒の多くが死に、前進できなくなります。
黄昏の後、李陵は便衣(常服。『資治通鑑』胡三省注によると小袖の短衣)を着て一人で営を出ました。
左右の者に「私についてくるな。丈夫一人で単于を取ろう」と言います。
しかし久しくしてから、李陵は陣に戻って嘆息し、「兵が敗れたのだから死ぬしかない」と言いました。
全ての旌旗を斬り、珍宝を地中に埋め、嘆いて言いました「もしまた数十の矢を得ることができたら脱するに足りた。今、兵(武器)がないのに再び戦っても、天が明けたら坐して縛られるだけだ。それぞれ鳥獣のように散れば、誰かが脱出して帰還し、天子に報告できるかもしれない。」
李陵は軍士に命じて一人ずつ二升の糒(干飯)と一片の冰(秋冬なので既に氷があります。渇きをしのぐ時に使います)を持たせ、遮虜障で合流することを約束しました。
 
夜半、戦鼓を撃って士を出発させました。しかし鼓は鳴りません(恐らく既に破れていたからです)
李陵と韓延年は馬に乗りました。壮士で従う者は十余人います。
漢軍の動きを知った匈奴騎兵数千が追撃し、韓延年は戦死しました。
李陵は「陛下に報告する面目がない」と言って投降しました。
軍人(兵)は分散して走り、匈奴の追撃を脱して塞に逃げ帰った者は四百余人いました。
漢書武帝紀』は李陵が投降するまでに挙げた戦功を「首虜一万余級を斬った」としています。
 
 
 
次回に続きます。