西漢時代146 武帝(六十五) 匈奴遠征 前98~96年
癸未 前98年
どういう罪かは書かれていません。
「執金吾」の由来に関しては二つの説があります。一つは、「吾」は「禦(守る)」に通じており、「金革(武器)を掌握して非常時に守る(掌執金革以禦非常)」と解釈する説です。
もう一つは、「金吾」を鳥の名とする説です。金吾は不祥を避けることができたため、天子が外出する時、先導として非常事態に備えた中尉はこの鳥の像を持ちました(執此鳥之象)。そこから執金吾という官名になりました。
漢政府が酒の専売を始めました。
「榷酒酤」といいます。「榷」は「独占」「専売」の意味です。「酒酤」は「酒の売買」です。
民間での酒の製造や販売が禁止され、政府が利益を独占することになりました。
方士が神人の降臨を待って祭祀を行ったり、海に入って蓬莱を求めていましたが、全く成果がありませんでした。
しかし公孫卿は大人(巨人)の足跡を根拠に弁解します。
この後も方士で神祠(神仙の祭祀)について語る者がますます増えましたが、やはり成果はありませんでした。
夏四月、大旱に襲われました。
天下に大赦しました。
行幸した地の田租を免除しました。
秋、匈奴が雁門に侵入しました。
雁門太守が「畏愞(臆病軟弱)」の罪で棄市に処されました。
甲申 前97年
春正月、諸侯王が甘泉宮で武帝に朝見しました。
匈奴を討伐するために、天下の七科の讁と勇敢の士を動員しました。
「讁」は咎を受けて徴用された者です。『資治通鑑』胡三省注によると、「七科の讁」は「罪を犯した官吏、亡命(逃亡者。または死刑囚)、贅壻(婿入りした男)、賈人(商人)、かつて市籍(商人の戸籍)があった者(以前商人だった者)、父母に市籍がある者、大父母(祖父母)に市籍がある者」の七種類を指します。
貳師将軍・李広利が騎兵六万、歩兵七万を率いて朔方から出ました。強弩都尉・路博徳が歩兵一万余を指揮して李広利と合流します。
游撃将軍・韓説が歩兵三万を率いて五原を出ました。
因杅将軍・公孫敖が騎兵一万、歩兵三万を率いて雁門を出ました。
李広利は単于と十余日にわたって戦い続けましたが撤兵しました。
武帝は公孫敖を匈奴に深く進入させ、李陵を迎え入れるように命じていました。しかし公孫敖軍は功無く引き返し、こう報告しました「生口(捕虜)を捕らえました。彼が言うには、李陵が単于に兵(用兵。兵法)を教えて漢軍に備えています。だから臣は得るものがありませんでした。」
武帝は李陵の家を族滅しました。
暫くして単于に用兵を教えていたのは李陵ではなく、漢から降った李緒という将だと分かりました。
李陵は人を送って李緒を刺殺しました。
後に大閼氏が死んだため、単于は李陵を呼び戻し、娘を娶らせて右校王に立てました。
秋九月、死罪の者でも銭五十万を納めて贖罪したら死一等を減らすことにしました。
乙酉 前96年
春正月、因杅将軍・公孫敖の妻が巫蠱(呪術の一種)を行ったため、公孫敖も要斬(腰斬)に処されました。
郡国の豪桀(豪族)を茂陵に遷しました。
『漢書・武帝紀』には「郡国の吏民・豪桀を茂陵と雲陵に遷した」とありますが、顔師古は「雲陵」は「雲陽」の誤りとし、こう解説しています「ここは『雲陽』と書くべきだが、転写した者が誤って『雲陵』と書いてしまった。茂陵は武帝によって建造され、雲陽には甘泉宮があったので、豪桀をまとめて遷したのである。鉤弋夫人・趙倢伃が死んでから雲陽に埋葬され、昭帝(武帝の子)即位後、始めて趙倢伃を追尊して皇太后とし、雲陵を建造したので(武帝後元二年・前87年参照)、武帝の時代はまだ雲陵は存在していない。」
夏六月、天下に大赦しました。
且提侯単于には二人の子がいました。長子は左賢王、次子は左大将です。
それを聞いた左賢王は単于庭に行くのを止めました。
しかし左大将が人を送って左賢王を招き、単于の位を譲りました。
左賢王は病と称して辞退しましたが、左大将はそれを聴かず、こう言いました「もし不幸にも死んでしまったら、私に位を伝えてください。」
左大将は左賢王になりました。
数年後、左賢王が死にました。子の先賢撣は左賢王を継ぐことができず、日逐王に改められます。
単于は自分の子を左賢王にしました。
次回に続きます。