西漢時代146 武帝(六十五) 匈奴遠征 前98~96年

今回は西漢武帝天漢三年から太始元年までの三年間です。
 
西漢武帝天漢三年
癸未 前98
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月、御史大夫王卿が罪を問われて自殺しました(王卿の「卿」は尊称かもしれません。下部コメント欄を参照ください)
どういう罪かは書かれていません。
 
執金吾杜周を御史大夫に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、京師を警護する中尉が武帝太初元年(104)に執金吾に改名されました。
「執金吾」の由来に関しては二つの説があります。一つは、「吾」は「禦(守る)」に通じており、「金革(武器)を掌握して非常時に守る(掌執金革以禦非常)」と解釈する説です。
もう一つは、「金吾」を鳥の名とする説です。金吾は不祥を避けることができたため、天子が外出する時、先導として非常事態に備えた中尉はこの鳥の像を持ちました(執此鳥之象)。そこから執金吾という官名になりました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
漢政府が酒の専売を始めました。
「榷酒酤」といいます。「榷」は「独占」「専売」の意味です。「酒酤」は「酒の売買」です。
民間での酒の製造や販売が禁止され、政府が利益を独占することになりました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月、武帝が泰山を行幸して封(天を祭る盛り土)を修め(封を修復して祭祀し)、明堂を祀り、各地の計(戸籍財政等の帳簿)を受け取りました。
 
帰還して北地を行幸し、常山を祀って玄玉(黒い玉)を埋めました。
 
方士が神人の降臨を待って祭祀を行ったり、海に入って蓬莱を求めていましたが、全く成果がありませんでした。
しかし公孫卿は大人(巨人)の足跡を根拠に弁解します。
武帝は方士の怪迂な語(奇怪で紆余曲折した話)に嫌気がさしていましたが、それでもあきらめられず、本物の神仙に遭遇することを期待し続けました。
この後も方士で神祠(神仙の祭祀)について語る者がますます増えましたが、やはり成果はありませんでした。
 
夏四月、大旱に襲われました。
天下に大赦しました。
行幸した地の田租を免除しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋、匈奴が雁門に侵入しました。
雁門太守が「畏愞(臆病軟弱)」の罪で棄市に処されました。
資治通鑑』胡三省注によると、軍法では「逗留畏愞の者は要斬(腰斬)」と定められていました。
 
 
 
西漢武帝天漢四年
甲申 前97
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、諸侯王が甘泉宮で武帝に朝見しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
匈奴を討伐するために、天下の七科の讁と勇敢の士を動員しました。
「讁」は咎を受けて徴用された者です。『資治通鑑』胡三省注によると、「七科の讁」は「罪を犯した官吏、亡命(逃亡者。または死刑囚)、贅壻(婿入りした男)、賈人(商人)、かつて市籍(商人の戸籍)があった者(以前商人だった者)、父母に市籍がある者、大父母(祖父母)に市籍がある者」の七種類を指します。
 
貳師将軍李広利が騎兵六万、歩兵七万を率いて朔方から出ました。強弩都尉路博徳が歩兵一万余を指揮して李広利と合流します。
游撃将軍韓説が歩兵三万を率いて五原を出ました。
因杅将軍公孫敖が騎兵一万、歩兵三万を率いて雁門を出ました。
 
これを聞いた匈奴は累重(妻子や財産)を余吾水の北に移動させてから、且鞮侯単于自ら兵十万を率いて余吾水南で待機しました。
李広利は単于と十余日にわたって戦い続けましたが撤兵しました。
史記匈奴列伝(巻百十)』はこの時に李広利が匈奴に降ったとしていますが誤りです。李広利が匈奴に奔るのは七年後武帝征和三年90年)の事です。
 
游撃将軍韓説は戦果を挙げることができず、因杅将軍公孫敖も匈奴左賢王と戦って利がなかったため、どちらも引き上げました。
 
武帝は公孫敖を匈奴に深く進入させ、李陵を迎え入れるように命じていました。しかし公孫敖軍は功無く引き返し、こう報告しました「生口(捕虜)を捕らえました。彼が言うには、李陵が単于に兵(用兵。兵法)を教えて漢軍に備えています。だから臣は得るものがありませんでした。」
武帝は李陵の家を族滅しました。
暫くして単于に用兵を教えていたのは李陵ではなく、漢から降った李緒という将だと分かりました。
李陵は人を送って李緒を刺殺しました。
大閼氏単于の母)が李陵を殺そうとしましたが、単于が李陵を北方に隠しました。
後に大閼氏が死んだため、単于は李陵を呼び戻し、娘を娶らせて右校王に立てました。
李陵は衛律と共に尊重されて匈奴の政権を握ります。衛律は常に単于の左右におり、李陵は外にいて大事があったら討議に参加しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、武帝が皇子劉髆を昌邑王に立てました。
漢書諸侯王表』は「六月乙丑」の事としていますが、『漢書武帝紀』は「夏四月」としており、『資治通鑑』は本紀に従っています(『資治通鑑』胡三省注)
 
[] 『漢書武帝紀』からです。
秋九月、死罪の者でも銭五十万を納めて贖罪したら死一等を減らすことにしました。
 
 
 
西漢武帝太始元年
乙酉 前96
 
「太始」は万物の開始を意味します。『資治通鑑』胡三省注によると、天下を蕩滌(洗浄)して民と更始するために改元しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、因杅将軍公孫敖の妻が巫蠱(呪術の一種)を行ったため、公孫敖も要斬(腰斬)に処されました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
郡国の豪桀(豪族)を茂陵に遷しました。
 
漢書武帝紀』には「郡国の吏民・豪桀を茂陵と雲陵に遷した」とありますが、顔師古は「雲陵」は「雲陽」の誤りとし、こう解説しています「ここは『雲陽』と書くべきだが、転写した者が誤って『雲陵』と書いてしまった。茂陵は武帝によって建造され、雲陽には甘泉宮があったので、豪桀をまとめて遷したのである。鉤弋夫人・趙倢伃が死んでから雲陽に埋葬され、昭帝(武帝の子)即位後、始めて趙倢伃を追尊して皇太后とし、雲陵を建造したので武帝後元二年・前87年参照)武帝の時代はまだ雲陵は存在していない。」
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏六月、天下に大赦しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、匈奴の且鞮侯単于が死にました。
且提侯単于には二人の子がいました。長子は左賢王、次子は左大将です。
資治通鑑』胡三省注によると、匈奴には二十四長がおり、左賢王は一位、左大将は五位でした。
 
且提侯単于が死んだ時、左賢王が来なかったため、貴族達は左賢王が病を患ったと思って左大将を単于に立てました。
それを聞いた左賢王は単于庭に行くのを止めました。
しかし左大将が人を送って左賢王を招き、単于の位を譲りました。
左賢王は病と称して辞退しましたが、左大将はそれを聴かず、こう言いました「もし不幸にも死んでしまったら、私に位を伝えてください。」
左賢王は同意してやっと即位しました。これを狐鹿姑単于(または「狐鹿孤単于」)といいます。
左大将は左賢王になりました。
 
数年後、左賢王が死にました。子の先賢撣は左賢王を継ぐことができず、日逐王に改められます。
資治通鑑』胡三省注によると、日逐王は匈奴の西辺に住みました。日(太陽)が西に沈むため、日逐王(日を追う王)といいます。
 
単于は自分の子を左賢王にしました。
 
 
 
次回に続きます。