西漢時代148 武帝(六十七) 巫蠱 前93~92年
戊子 前93年
壬午(二十五日)、高祖を明堂で祀って上帝に配しました。
ここで各地の計(戸籍財政等の帳簿)を受け取りました。
癸未(二十六日)、孝景皇帝を明堂で祀りました。
甲申(二十七日)、封(天を祭る盛り土)を修めました(封を修復して天を祀りました)。
丙戌(二十九日)、石閭で禅(地を祀る儀式)を行いました。
武帝は『交門の歌』を作りました。
五月、武帝が帰還して建章宮を訪れ、大規模な酒宴を開きました。
天下に大赦しました。
秋七月、趙で蛇が城郭の外から邑内に入り、邑内の蛇の群れと孝文廟の下で闘いました。
邑内の蛇が死にました。
「武帝太始四年七月、趙で蛇が城郭の外から中に入り、邑内の蛇と孝文廟の下で闘った。邑内の蛇が死んだ。二年後の秋、衛太子の事件が起きた(武帝征和二年・前91年、衛皇后が生んだ太子・劉據が謀反します)。事件は趙人・江充から始まった。」
尚、当時の趙王は劉彭祖(景帝の子)です。劉彭祖は翌年に死にます。
冬十月甲寅晦、日食がありました。
西に向かって安定、北地の二郡に至りました。
己丑 前92年
春正月、武帝が帰還して建章宮に行きました。
三月、趙王・劉彭祖(敬粛王。景帝の子)が死にました。
劉彭祖は江都易王・劉非(景帝の子)が寵愛した淖姫を娶っていました。
当時、淖姫の兄が漢の朝廷で宦者(宦官)として仕えていました。
武帝が兄を召して問いました「淖子はどうだ?」
兄は「彼の為人は多欲です」と答えました。
夏、大旱に襲われました。
当時、武帝は建章宮に住んでいました。
武帝は怒って門候を斬りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、門候は宮門の出入りを管理する官で、秩六百石です。
『漢書』の注には「三輔の騎士を動員して長安の上林中を大搜し、城門を十五日にわたって閉じた。北軍を待詔させ(詔が出るまで待機させ)、征官(召集された官員)の多くが餓死した(待詔北軍征官多餓死)」と書かれています。
この事が発覚して公孫敬声は獄に下されます。
公孫賀は自ら朱安世を逮捕して公孫敬声の罪を贖いたいと申し出ます。武帝はこれに同意しました。
後に朱安世が逮捕されると、朱安世は笑ってこう言いました「丞相の禍は宗族に及ぶだろう。」
朱安世は獄中で上書してこう訴えました「敬声と陽石公主(武帝の娘)が私通しました。また、上(陛下)が甘泉に行こうとした時、巫を使って馳道に偶人(呪いに使う人形)を埋めさせ、上(陛下)を祝詛(呪詛)して悪言を口にしました。」
翌年、公孫賀が逮捕されます。
次回に続きます。