西漢時代149 武帝(六十八) 太子劉據 前91年(1)

今回は西漢武帝征和二年です。三回に分けます。
 
西漢武帝征和二年
庚寅 前91
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、武帝が丞相公孫賀を逮捕して獄に下しました。事件(前年参照)の調査が始まります。
公孫賀と公孫敬声の父子は獄中で死に、家族も誅滅されました。
この事件のきっかけになった朱安世がどうなったのかは分かりません。

涿郡太守劉屈氂が丞相になり、澎侯に封じられました。

漢書五行志上』によると、劉屈釐(劉屈氂)が丞相になったのは三月の事です。

劉屈氂は中山靖王劉勝の子で、劉勝は景帝の子です。
 

尚、『漢書百官公卿表下』を見ると、丞相公孫賀は四月壬申に獄死し、五月丁巳に劉屈氂が左丞相になっています。

しかし『漢書王子侯表上』では、劉屈釐(劉屈氂)は三月丁巳に封侯されているので、恐らく『百官公卿表』が誤りです。

 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、大風が吹き、家屋が壊れて木が倒れました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
閏四月、諸邑公主、陽石公主および衛皇后の弟の子にあたる長平侯衛伉が巫蠱事件(公孫賀の事件)連座して誅殺されました。
資治通鑑』胡三省注によると、「諸邑」の諸は県名です。諸邑公主、陽石公主とも衛皇后と武帝の間にできた娘です。長平侯衛伉は衛青の子です。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
武帝が甘泉を行幸しました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
武帝が二十九歳の時、戾太子劉據が生まれました武帝元朔元年128年参照)
武帝は太子をとても愛しました。
太子は成長すると仁恕温謹(仁慈寛厚温和慎重)な性格になりました。武帝は太子の材能(才能)が少なく、自分に似ていないことを嫌い始めます。
武帝が寵愛した夫人達も子を産みました。王夫人の子は劉閎、李姫の子は劉旦と劉胥、李夫人の子は劉髆といいます。武帝の衛皇后と太子に対する寵愛が次第に衰えたため、皇后と太子は常に不安を抱えるようなりました。
武帝はそれを察して大将軍衛青(衛皇后の弟)にこう言いました「漢家は庶事(各種の政務)が草創(創業)にあり、しかも四夷が中国を侵陵しているので、朕が制度を改めなければ後世に法が無くなってしまう。出師征伐しなければ天下を安らかにできないから、民を労しないわけにはいかないのだ。しかしもし後世も朕のように為したら、亡秦の跡を継ぐことになる。太子は敦重で静を好むから、必ず天下を安定させることができる。よって朕の憂いとなるものはない。守文の主(法を守る君主。守勢の君主)を求めるなら、太子より勝る者はいないだろう。ところが皇后と太子には不安の意があると聞いた。本当にそのようなことがあるのか?わしの意を伝えて諭せ。」
衛青は頓首して謝意を示しました。
これを聞いた衛皇后も簪を取って(装飾を除いて)罪を請いました。
 
太子はいつも四夷の征伐を諫めましたが、武帝は笑ってこう言いました「わしが労(労苦)に当たり、逸(安逸)を汝に残すのもいいではないか。」
 
武帝行幸する時は、常に後事を太子に託し、宮内の事は皇后に任せていました。武帝がいない間に採決した事があったら、帰還後に最も大きな事だけを報告させました。武帝が太子の決定に同意しなかったことはなく、場合によっては裁決の内容を確認しないこともありました。
武帝は厳しい法を用いて苛酷な官吏を多数用いました。しかし太子は寬厚だったため、多くの案件で平反(判決を覆して刑を軽くすること)しました。
太子は百姓の心を得ましたが、法を用いる大臣は皆喜びませんでした。
皇后は太子が久しくこのようにしていたら罪を得ることになると心配しました。そのため、いつも太子を戒めて、武帝の意に従って裁決すること、勝手に刑を軽くするべきではないことを諭しました。
しかしそれを聞いた武帝は「太子が正しく皇后が間違っている」と言いました。
群臣で寬厚な長者は皆、太子を支持しましたが、厳酷に法を用いる者は皆、太子を批判しました。邪臣の多くが党を為して協力したため、太子は称賛が少なく誹謗が多くなります。
衛青が死んでからは、太子に外家(母の家族)の頼りがなくなったため、邪臣達が競って太子を陥れようとするようになりました。
 
武帝が諸子と一緒にいる機会は少なく、衛皇后も稀にしか会えなくなりました。
太子がかつて皇后を謁見した時、日が傾いてからやっと出てきました。
すると黄門蘇文が武帝に「太子が宮人(宮女)と戯れていました」と報告しました。
資治通鑑』胡三省注によると、黄門は少府に属す宦官です。
蘇文の報告を聞いた武帝は太子を咎めることなく、逆に太子の宮人(宮女)を増やして二百人にしました。
後にこの事を知った太子は心中で蘇文を憎みました。
 
蘇文は小黄門常融、王弼等としばしば隠れて太子の過失を探り出し、大げさに武帝に報告していました。
衛皇后は怨憤のため切歯し、太子から武帝に蘇文等の誅殺を上奏させようとしましたが、太子はこう言いました「過失を犯しさえしなければ、蘇文等を畏れる必要はありません。それに上(陛下)は聡明なので、邪佞を信じるはずがありません。憂いるには足りません。」
 
武帝が体調を少し壊したことがありました。
武帝は常融を送って太子を招きます。
戻った常融はこう報告しました「太子に喜色があります。」
武帝は何も言いませんでした。
太子が来てから武帝がその顔をよく視ると、涕泣した痕がありました。しかし太子は武帝の前で勉めて談笑します。武帝は不思議に思ったため、改めて秘かに調べました。その結果、真相が明らかになり、常融は誅殺されました。
 
衛皇后も慎重に行動して自分の身を守り、嫌疑から離れることができたため、既に久しく武帝の寵を得ていませんでしたが、礼を用いて遇されました。
 
当時、方士や各種の神巫が京師に多数集まっており、左道(邪道。「右賢左愚」「右貴左賎」といわれていたため、正道は右、邪道は左とされました)によって大衆を惑わし、ありとあらゆる変幻(幻術)を行いました。
女巫は宮中に入って美人達に厄を避ける方法を教え、それぞれの部屋に木人(木の人形)を埋めて祭祀をしました(人形を埋めて禍を他者に移すのは「巫蠱の術」です。当時は禁止されていました)
美人達が互いに嫉妬して憎しみ争うと、それぞれ相手の罪(木人を埋めていること)を告発し、武帝を呪詛して大逆無道であると訴えました。
怒った武帝後宮から大臣に及ぶ数百人を殺しました。
 
武帝が心中に猜疑を抱くようになってから、ある日の昼寝で奇妙な夢を見ました。数千の木人が杖を持って武帝を撃とうとします。武帝は驚いて目を覚ましましたが、この夢が原因で体を壊しました。忽忽(恍惚。心が虚ろになること)として苦しみ、物忘れが激しくなります。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代150 武帝(六十九) 太子挙兵 前91年(2)