西漢時代151 武帝(七十) 鎮圧 前91年(3)

今回で西漢武帝征和二年が終わります。
 
[(続き)] 七月庚寅(十七日)、太子の兵が敗れました。太子は南の覆盎城門に奔ります。
資治通鑑』胡三省注によると、長安城南面の東端にある門を覆盎城門、または杜門といいました。長楽宮は長安城の東部に位置し、覆盎城門に繋がっています。太子は長楽宮西の闕下で敗れたため、東南に奔って覆盎城門から長安城の外に出ました。
 
この時、司直田仁が城門を閉じていました。
資治通鑑』胡三省注によると、司直は武帝が置きました。丞相を助けて不法の者を検挙する官で、秩は比二千石です。
 
田仁は武帝と太子の父子による親情を考慮し、太子を困窮させるつもりがありませんでした。そのため太子は外に逃げ延びます。
丞相が田仁を斬ろうとしましたが、御史大夫暴勝之が丞相にこう言いました「司直は二千石の官吏です。まず(陛下に)指示を請うべきです。どうして勝手に斬るのですか。」
丞相は田仁を釈放しました。
ところがこれを聞いた武帝が激怒し、暴勝之を吏(官吏。獄吏)に下して譴責しました「司直が反者を放ったのだから、丞相がこれを斬るのは法だ。大夫はなぜそれを勝手に止めたのだ!」
暴勝之は惶恐して自殺しました。
 
武帝が詔を発し、宗正劉長、執金吾劉敢に策(皇帝の命令書)を与えて皇后の璽綬を没収させました。
衛皇后は自殺します。
 
武帝は任安が参戦しなかったため、「老齢の官吏任安は兵事が起きたのに勝敗を傍観し、勝者に従おうとした」と判断しました。任安は二心を抱いた罪で田仁と共に要斬(腰斬)に処されます。
馬通が如侯を捕え、長安の男子景建が馬通に従って石徳を捕え、商丘成が力戦して張光を捕えたため、武帝は馬通を重合侯に、景建を徳侯に、商丘成を侯に封じました。
太子の賓客達で宮門に出入りしたことがある者は全て誅殺され、太子に従って兵を発した者も全て法に反した罪で族滅されました。吏士で太子に脅迫されて従った者は皆、敦煌郡に遷されます。
太子が長安城外に逃げたため、長安の諸城門に屯兵が置かれました。
 
武帝の激しい怒りは一向に収まらず、群臣は憂懼するだけでどうすればいいのか分かりませんでした。
そこに壺関の三老(茂は名。『資治通鑑』胡三省注によると、姓は令狐。下述する『漢武故事』では「鄭茂」です)が上書して言いました「父は天と等しく、母は地と等しく、子は万物と等しいので、天が平静になり地が安んじたら、物が茂成(繁茂)すると聞いています。父に慈があり母に愛があれば、子は孝順になります。今、皇太子は漢の適嗣(後継者)となり、万世の業を受け継ぎ、祖宗の重を体現し、(陛下とは)皇帝の宗子(大宗を受け継ぐ子)という関係があります。江充は布衣の人で、閭閻(巷)の隸臣でしたが、陛下が顕貴にして重用したため、至尊の命を奉じて皇太子を迫蹴(逼迫)し、偽り飾って姦詐を為し(造飾姦詐)、群邪(奸邪の群れ)が錯繆(錯乱。是非善悪を転倒させること)し、それが原因で親戚(家族。親子)の路が隔てられて通じなくなってしまいました。太子は進んでも上(陛下)に会えず、退いたら乱臣の中で困窮することになり、冤(不当な罪)を蒙っても訴える場所がなく、忿忿(憤懣)の心を我慢できなくなったので、ついに立ち上がって江充を殺し、恐懼して逋逃(逃亡)したのです。子が父の兵を盗んだのは難から自分を救って免れたかったからに過ぎず、臣が考えるに邪心があったからではありません。『詩(小雅青蠅)』にはこうあります『ブンブンと青蠅が飛び、垣根に止まる。愷悌の君子(親しみやすい君子)は讒言を信じず。讒言が極を失ったら(讒言が際限なく行われるようになったら)、四国(四方。天下)が共に乱れる(営営青蠅,止于藩。愷悌君子,無信讒言。讒言罔極,交乱四国)。』以前、江充が趙太子を讒殺した事は、天下で知らない者がいません(趙の太子劉丹は太子を廃されましたが、死んではいません。『漢書景十三子伝(巻五十三)』参照)。陛下はこれを省察(反省洞察)せず、太子に過失があると判断して深く譴責し、盛んに怒りを発し、大兵を挙げて太子を求めました。三公(丞相)が自ら将となり、智者も敢えて発言できず、辯士も敢えて弁明しない現状に、臣は秘かに心を痛めています。ただ陛下の寬心慰意を願います。少しでも父子の親情を思い、太子の非(過失)のために患いることを止め、すぐに甲兵を解散させるべきです。太子を久しく逃亡させてはなりません。臣は惓惓(忠切の心)に勝てず、一旦の命(短い命)を差し出しました。建章宮の下で罪を待ちます。」
書が上奏されると武帝は感動して過ちを悟りましたが、まだ太子の赦免を公言することはできませんでした。
 
逃亡した太子は東の湖県に入り、泉鳩里に隠れました。
太子を匿った家は貧困でしたが、主人がしばしば屨()を売って太子を養いました。
太子の故人(旧知)が湖県におり、裕福な生活をしていると聞いたため、太子は人を送って招きました。しかしこれが原因で太子が見つかってしまいます。
 
八月辛亥(初八日)、官吏が太子を包囲しました。太子は逃げられないと判断し、すぐに部屋に入って戸を閉め、首を吊りました(「自経」。『資治通鑑』胡三省注によると、縄で首を縛ることを「自経」、刀で頸を斬ることを「自剄」といいます)
 
山陽の男子張富昌が兵卒として従っていました。最初に足で戸を蹴って部屋の中に入ります。
新安令史李寿が走って太子を抱え、縄を解きました。
家の主人が太子のために戦って死に、皇孫(太子の子)二人も害されました。
 
資治通鑑』胡三省注は『漢武故事』の記述を紹介しています。
「太子に従って反した者を調査し、都外の郡国を巻き込んで数十万人が連座しました。そこで壺関の三老鄭茂が上書しました。武帝は感動して過ちを悟り、反した者の罪を赦します。また、鄭茂を宣慈校尉に任命し、太子を赦すために符節を持って三輔(近畿)を巡らせました。
太子は姿を現そうとしましたが、まだ疑っています。しかも吏(官吏)が急いで太子を捕えようとしたため、太子は自殺してしまいました。」
この記述に対して胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「武帝が太子を赦したのなら、詔吏(詔を奉じた官吏)が太子を捕えようとするはずがないので、この説は恐らく妄言である」と解説しています。
 
武帝は太子の死を悼み、李寿を邘侯に、張富昌を題侯に封じました。
 
以前、武帝は太子のために博望苑を建てました。
資治通鑑』胡三省注によると、博望苑は長安杜門外五里の場所にありました。
武帝はそこで太子と賓客を交流させ、太子の好みのまま自由に行動させました。そのため賓客の多くが異端儒学以外の教え)を太子に進めました。
 
資治通鑑』の編者司馬光はこう書いています「古の明王が太子を教え養う時は、太子のために方正敦良の士を選んで保傅、師友とし、朝から夕まで共に交遊させたので、太子の左右前後には正人ではない者はなく、出入りも起居も正道ではないことがなかった。しかしそれでも淫放邪僻によって禍敗に陥った者もいたのである。武帝は太子に賓客と通じさせ、好みのまま自由にさせた。正直な者とは親しみにくく、諂諛の者とは投合しやすいというのが、元から中人(普通の人)の常情である。太子が善い終わりを得られなかったのも当然であろう。」
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸亥(二十日)地震がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
九月、商丘成が御史大夫になりました。
太子の乱で自殺した暴勝之の代わりです。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
趙敬粛王劉彭祖(景帝の子)の小子劉偃が平干王に封じられました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
匈奴が上谷や五原に侵入して吏民を殺掠しました。
 
 
 
次回に続きます。