西漢時代152 武帝(七十一) 李広利の投降 前90年
辛卯 前90年
匈奴が五原と酒泉に侵入して両都尉を殺しました。
夏五月、天下に大赦しました。
左賢王は人民を駆使して余吾水を渡らせ、六七百里離れた兜銜山で生活させました。
単于自ら精兵を率いて姑且水を渡ります。
漢の商丘成軍が匈奴に入り、近路を通って追撃しましたが、誰とも遭遇しませんでした。
御史大夫軍は近路を通って追撃しましたが、匈奴と遭遇しなかったために引き上げました。匈奴は大将と李陵に三万余騎を率いて漢軍を追撃させ、浚稽山に至って衝突しました。九日間転戦した末、漢兵が陣を落として撃退し、多くの匈奴兵を殺傷します。蒲奴水に至った時、匈奴軍は利がないため引き返しました。
『資治通鑑』に戻ります。
漢の馬通軍は天山に至りました。
馬通は得失がありませんでした。
漢と六国の連合軍は車師の王と民衆を全て捕虜にして引き上げました。
李広利は勝ちに乗じて追撃し、北の范夫人城に至りました。
匈奴は奔走し、敢えて漢軍に対抗する者はいませんでした。
『資治通鑑』胡三省注によると、范夫人城は漢将が築いた城で、将が死んでからもその妻が余衆を率いて城を守ったため、范夫人城という名になりました。范氏は胡詛(恐らく匈奴の呪術)ができたようです(能胡詛者)。
李広利が出征する時、丞相・劉屈氂が祖道(旅に出る人のために道を祀り、餞別の宴を開くこと)して渭橋まで送りました。
李広利が言いました「君侯(あなた。列侯に対する尊称)が早く昌邑王を太子に立てるように請うことを願います。もし帝に立ったら、君侯も長く憂いがなくなります。」
劉屈氂は同意しました。
昌邑王・劉髆は李広利の妹・李夫人が生んだ子です。李広利の娘は劉屈氂の子に嫁いだため、二人とも劉髆の即位を欲していました。
武帝が調査を命じ、大逆不道の罪と判断されました。
『資治通鑑』胡三省注によると、内者令は少府に属します。『漢書・宣帝紀』には「内謁者令・郭穰」とあります。内者と謁者にはそれぞれ令と丞がおり、全て少府に属しました。胡三省は「郭穰が二つの令を兼任していたというのか(そんなはずはない。原文「豈其時穰兼両令乎」)」と書いています。恐らく『宣帝紀』の「内謁者令」は「内者令」の誤りです。
妻子も華陽街で梟首(首を晒す刑)にされます。
李広利の妻子も逮捕されました。
この報せを聞いた李広利は憂い恐れました。この時、掾(幕僚)の胡亜夫が罪(刑)を逃れるために従軍しており、李広利にこう言いました「(将軍の)夫人も室家(家族)も全て吏(官吏。獄吏)にいます(全て逮捕されました)。もし還って意が叶わなかったら(原文「不称意」。「願い通りにならなかったら」「家族を助けられなかったら」。または「陛下の意に沿わなかったら」)、獄に赴いて(家族と)会うことになります。そうなったら郅居以北をどうして再び見ることができるでしょうか(匈奴に降る機会が無くなってしまいます)。」
李広利は躊躇しましたが、匈奴に深く進攻して功を立てることで贖罪しようと考え、北に向かって郅居水沿岸に至りました。
匈奴軍が既に去っていたため、李広利は護軍に二万騎を率いて郅居水を渡らせました。
しかし漢の軍長史と決眭都尉・煇渠侯(煇渠侯は武帝元狩二年・前121年に僕多が封じられました。『漢書・景武昭宣元成功臣表』によると、僕多の子・雷電の代になっています。尚、『景武昭宣元成功臣表』では「決眭都尉」ではなく「五原属国都尉」です)が謀ってこう言いました「将軍は異心を抱いており、衆を危うくして功を求めようとしている。恐らく失敗するに違いない。」
二人は李広利を捕えようとしました。
夜、匈奴軍が漢軍の前に深さ数尺の溝を掘り、後ろから急撃しました。
漢軍は大乱に陥り、李広利は投降しました。
単于は李広利が漢の大将だと知っていたため、娘を嫁がせて衛律よりも尊寵しました。
武帝は李広利の宗族を誅滅しました。
秋、蝗害がありました。
九月、元城父令・公孫勇と客の胡倩等が反乱を謀りました。
胡倩は偽って光禄大夫を称し、盗賊の督察のために派遣されたと公言しました。
しかし淮陽太守・田広明が謀反を察知し、兵を発して胡倩を捕斬しました。
公孫勇は繡衣を着て駟馬車(四頭の馬が牽く馬車)に乗り、圉県に来ました。
しかし圉守尉・魏不害等が公孫勇を誅殺しました。
武帝は魏不害等四人を封侯しました。
『漢書・景武昭宣元成功臣表』では魏不害が封侯された時(征和二年十一月。恐らく「二年」は「三年」の誤りです)、轑陽侯・江喜(『漢書・酷吏伝(巻九十)』と『資治通鑑』胡三省注では「江徳」。西漢昭帝元鳳四年・前77年に述べます)と蒲侯・蘇昌も封侯されています。どちらも諡号は分かりません。
当時は吏民が巫蠱によって他者を告発し、罪に陥れていましたが、実際に調査をした結果、多くが真実ではないことが明らかになりました。
武帝も太子が江充に追いつめられて惶恐しただけで他意がなかったことを深く知ります。
ちょうどその頃、高寝郎(高祖廟守衛の郎官)・田千秋が緊急で変事を上奏し、太子の冤罪を訴えて言いました「子が父の兵を弄んでも、罪は笞刑に当たるだけです。天子の子が誤って人を殺したとしても、何の罪に当たるのでしょう。臣は先日、夢で一人の白頭の翁に会い、翁が臣にこの事を上奏させました。」
武帝は大いに覚醒して田千秋を招き、こう言いました「父子の間の事は、他人は口をはさみにくいものだが、公だけが誤りを明らかにした。高廟の神霊が公を使ってわしに教えたのだ。公はわしの輔佐となるべきだ。」
武帝はすぐに田千秋を大鴻臚に任命しました。
泉鳩里で太子に武器を加えた者は、始めは北地太守になりましたが、後に族滅されました。
天下の人々が太子の冤罪を聞いて悲しみました。
次回に続きます。