西漢時代153 武帝(七十二) 輪台罪己詔 前89年

今回は西漢武帝征和四年です。
 
西漢武帝征和四年
壬辰 前89
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、武帝が東莱を行幸してから大海に臨みました。海に出て神山を求めようとします。
群臣が止めても武帝は聞きません。
しかしちょうど大風が吹いて夜のように暗くなり、海水が沸き立ちました。
武帝は十余日留まりましたが、楼船を制御することができず引き還しました。
 
二月丁酉(初三日)、雍県で雲もないのに雷のような音が三回鳴り、(黒玉石)のように黒い隕石が二つ落ちました。音は四百里も響きました。
 
三月、武帝が鉅定(または「巨淀県」。『資治通鑑』胡三省注によると、斉国に属す県)で農耕してから還りました。
泰山を行幸し、封(天を祀る盛り土)を修めました(封を修復して天を祀りました)
 
庚寅(二十六日)、明堂で祭祀を行いました。
 
癸巳(二十九日)、石閭で禅(地を祀る儀式)を行いました。
武帝が群臣を接見して言いました「朕は即位してから狂悖(正道に背くこと)を為し、天下を愁苦させた。後悔しても及ばない。今からは、百姓を傷害して天下を糜費(浪費)させることがあったら、全て廃止する。」
田千秋が言いました「方士で神仙について語る者が多数いますが、明らかな功績はありません。臣は全て排斥追放することを請います。」
武帝は「大鴻臚の言の通りだ」と言い、方士で神人の降臨を待っている者を全て解散させました。
この後、武帝はいつも群臣の前で嘆息しながらこう言うようになりました「以前は愚惑だったので方士に欺かれてしまった。天下に仙人などいるはずがない。全て妖妄である。食事を節制したり薬を服したとして、よくても病を少なくできるだけだ。」
 
夏六月、武帝長安に還り、甘泉に行幸しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
丁巳(二十五日)、大鴻臚田千秋を丞相に任命し、富民侯に封じました。
資治通鑑』胡三省注によると、富民侯の食邑は沛郡蘄県です。百姓が豊かになることを願って嘉名(美名)に改められました(下述します)
 
田千秋には特別な才能がなく、伐閲(功績と経歴)功労もありませんでしたが、一言によって武帝を悟らせたため(前年参照)、数カ月で宰相の位を得て封侯されました。このような事は今までの世には無かったことです。
しかし田千秋の為人は敦厚で智慧があり、丞相の位にいて職務を全うできたため、前後の数公(数人の丞相)を超越しました。
 
これ以前に搜粟都尉桑弘羊と丞相、御史が上奏しました「輪台(西域の地名)東に漑田(灌漑した田地。または灌漑できる田地)が五千頃以上あるので、屯田の卒を派遣し、校尉三人を置いて分けて守らせ、多数の五穀を植えるべきです。張掖、酒泉から騎假司馬(恐らく假司馬が率いる騎兵部隊)を送って斥候とし、民で壮健かつ敢えて移住しようという者を募って田地に向かわせ、広く田を開いて灌漑し、徐々に列亭を築き、城を連ねて西に延ばし、西国に威を及ぼして烏孫を助けましょう。」
当時、烏孫王が漢の公主を娶っていたため武帝元封六年105年参照)、桑弘羊等は屯田や列亭城壁を造って漢の威信を及ぼすことが烏孫の援けになると考えました。
 
武帝はこの意見に同意せず、過去を深く悔いる詔を降してこう言いました「以前、有司(官員)が辺境の費用を助けるために民の賦三十を増やすこと人頭税を一人当たり三十銭増やすこと)を上奏したが、その結果、老弱孤独をますます困窮させてしまった。今また卒を送って輪台で屯田することを求めたが、輪台は車師から更に西に向かって千余里の地にある。以前、開陵侯(成娩)が車師を撃った時、勝ってその王を降すことができたが、遼遠のため食糧が乏しくなり、道中で死んだ者は数千人もいた。それよりも更に西に向かうことができるか。以前は朕が不明だったため、軍候(弘は名)が上書した『匈奴が馬の前後の足を縛って城下に置き、「秦人よ(当時の匈奴漢人を秦人と呼んでいたようです)、我々が汝に馬を与えよう」と伝えに来た』という内容を信じ、また、漢の使者が久しく留められて帰還しなかったので、貳師将軍の兵を起こして使者のために威を重くしようとした。古は卿や大夫と事を謀り、蓍亀を参考にして不吉なら行動しなかったものだ(蓍亀は占いです。蓍草を使うのが筮、亀を使うのが卜です。『資治通鑑』胡三省注が卜筮について詳しく解説していますが省略します)。そこで匈奴が)馬を縛ったという上書を丞相、御史、二千石、諸大夫、郎、文学を為す者(『資治通鑑』胡三省注によると、経書を学ぶ者)および郡や属国の都尉等、全ての官員に見せた。すると皆、『虜匈奴が自らその馬を縛るのは匈奴人にとって)不祥の甚だしいものです』と言い、あるいは『匈奴は)強盛を示したいのです。不足している者は人に余力を見せたがるものです』と言った。公車方士(皇帝に呼ばれるのを待っている方士。公車は官署名。または、皇帝に呼ばれた時、公車で迎え入れられたため「公車方士」といいました)、太史、治星、望気および太卜亀蓍(『資治通鑑』胡三省注によると太史と太卜は太常に属します。治星は天文家、望気は気を観測する者で、どちらも太史に属します)は皆、『吉です。匈奴が必ず破れます。時(機械)を再び得ることはできません』と言い、また『北伐で将を派遣したら、鬴山に至って必ず克ちます。卦によると、諸将の中で貳師が最も吉です』と言った。だから朕は自ら貳師を派遣して鬴山に向かわせ、詔によって決して深入りしないように命じた。
ところが今、計謀(大臣等の意見)も卦兆(占いの結果)も全て反繆(反対。妄言)となった。重合侯(馬通)が虜匈奴の候者を得てこう言った『馬を縛るのは匈奴が軍事を呪詛する方法です(『資治通鑑』胡三省注によると、匈奴は漢軍が迫っていると聞いたら、巫を使って羊や牛を諸道や川辺に埋めて漢軍を呪いました)。』匈奴はしばしば『漢は極めて大きいが、飢渴に耐えられないから、一狼を放つだけで千羊を走らせることができる』と言っている。最近、貳師が敗れて軍士が死略(戦死するか捕虜になること)離散したため、常に悲痛が朕の心中にある。今、遠く離れた輪台の屯田を求め、亭隧(基地や隧道。または「隧」は「燧」の意味で「烽火台」)を建てようとしているが、これは天下を擾労(混乱労苦)させることであり、民への優待にはならないので、朕は聞くに忍びない。更に大鴻臚等は囚徒を募って匈奴の使者を送り還らせること(囚徒に匈奴の使者を送り還らせ、その機を利用して単于を暗殺すること)を議しているが、封侯の賞を明らかにして忿(怨恨)に報いるのは、五伯(五覇)にはできなかったことである(封侯という賞を餌に囚徒を募り、匈奴の使者を送り還した機会に単于を暗殺して恨みに報いるという方法は、五覇でも羞じとして採用しなかったのだから、大漢ならなおさらである)。そもそも匈奴が漢の降者を得たら常に提掖(二人が左右から腋を抱えて動けなくすること)して全身を搜索し、知っている情報を詳しく問い正すので、そのような計を実行できるはずがない。当今の急務は苛暴を禁じ、擅賦(勝手に追加された税)を廃止し、本農(農業)に尽力し、馬復令(馬を納めたら徭役賦税を免除する法令)を恢復して(馬の)不足を補い、武備を乏しくさせないことだけである。郡国二千石はそれぞれ畜馬の方略と辺境を補う計画を提出し、計(上計者。郡国の戸籍や財政状況を報告する者)と共に(上京して)回答せよ。」
武帝が今までの政治を反省したこの詔を「輪台罪己詔」といいます。
 
武帝はこの後再び兵を出すことがなくなりました。
また、田千秋を富民侯に封じて休息の意思を明らかにしました。「富民」は財を富まして民を養うことを意味します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
武帝は趙過を搜粟都尉に任命しました。
趙過は代田の法を作りました。
また、耕耘田器(農具)を便利かつ精巧にして民に教えたため、小さな力でも多くの穀物を採れるようになり、民が便を称えました。
 
代田法に関して『漢書食貨志上』に記述があるので、簡単に紹介します(完訳ではありません。抜粋意訳します)
代田法は后稷周王朝の租)が作った古法が元になっているといわれています。
まず一(畆)に三甽を作ります。甽は溝の意味です。一つの甽は広さ一尺、深さ一尺です。
甽と甽の間は盛り上がった壟(うね)になります。
春は甽に種を撒きます。両側に壟があるので種や芽を守ることができます。
苗が成長して葉が生え始めたら、壟に生えた雑草を刈り、少しずつ土を甽に入れます。こうして植物が生長するのに合わせて根元を埋めていきます。
盛暑(真夏)の頃には根が深くなり、強風や旱害から守られて丈夫な穀物が実るようになります。
一年で壟が完全に崩されて甽が埋められるので、翌年は新たに甽と壟を作ります。この時、前年甽だった場所が壟になり、壟だった場所が甽になります。よって代田法といいます。
農具にも改良が加えられました。二頭の牛と三人が一組になって新しい耦犂(犂の一種)を牽きます。
代田法と農具の改良によって生産力が向上しました。一年の収入は縵田(甽がない以前の農地)と較べて一あたり一斛以上増え、出来が良ければ増えた量がその倍(二斛以上)にもなりました。
 
[] 『漢書武帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋八月辛酉晦、日食がありました。
 
荀悦の『前漢紀』は「七月辛酉晦」としていますが、『漢書武帝紀』は「八月」としており、『資治通鑑』もそれに従っています。この年は九月壬戌が朔なので八月が正しいはずです(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴の衛律は李広利が単于に寵用されていることを妬んでいました。
匈奴単于の母閼氏が病になった時、衛律が胡巫にこう言わせました「先の単于が怒って『胡匈奴はかつて兵を祀る時(出征の祭祀を行った時)、常に貳師(李広利)を得たら社(土地神)に捧げると言っていた。なぜ用いないのだ(なぜ李広利を祭祀の犠牲にしないのだ)』と言いました。」
これを聞いた単于は李広利を逮捕しました。
李広利が罵って言いました「わしが死んだら必ず匈奴を滅ぼそう!」
匈奴は李広利を殺して祭祀を行いました。
 
 
 
次回に続きます。