西漢時代155 武帝(七十四) 武帝の死 前87年(1)
甲午 前87年
春正月、武帝が甘泉宮で諸侯王の朝見を受けました。宗室に賞賜を与えました。
武帝が病を患い、重体になりました。
霍光が涕泣して問いました「もしも不諱(死ぬこと)があったら誰が後嗣となるべきでしょうか。」
霍光は頓首して辞退し、「臣は金日磾に及びません」と言いました。
丙寅(十三日)、霍光を大司馬・大将軍に、金日磾を車騎将軍に、太僕・上官桀を左将軍に任命し、遺詔を与えて少主を助けさせました。
皆、臥内(寝室内)の寝床の下で拝命します。
その一年前(武帝征和四年・前89年)には『資治通鑑』が「趙過が搜粟都尉になった」と書いています。しかし『漢書・食貨志上』を見ると趙過が搜粟都尉になったのは「武帝末年」と書かれているだけで、詳しい時間はわかりません。
霍光は禁闥(宮門。朝廷)に出入りして二十余年になります。
武帝が外出する時は車に従い、入宮したら左右に侍り、とても慎重で過失がありませんでした。
為人は沈静細心で、宮廷を出入りしたり殿門を下りる時は歩く場所も止まる場所も必ず決まっています。郎や僕射が秘かに観察したところ、尺寸の誤差もありませんでした。
武帝は報告を聞いて激怒します。
しかし金日磾が頓首して謝り、弄児を殺した理由と状況を説明すると、武帝はとても悲しんで涙を流し、心から金日磾を敬うようになりました。
上官桀は材力(膂力)によって寵用されました。
『資治通鑑』胡三省注によると、上官桀は若い頃に羽林期門郎になりました。武帝が甘泉宮に行った時、大風が吹いて車が動けなくなったため、武帝は馬車の蓋(屋根)をはずして上官桀に持たせました。上官桀は車蓋を持ったまま従い、風が吹いても車から落ちることなく、雨が降り始めたらすぐに車蓋を立てたため、武帝はその材力を評価しました。
すると上官桀が頓首して言いました「臣は聖体が不安だと聞き、日夜憂懼していたため、誠に意が馬にありませんでした。」
言い終わると数行の涙が流れます。
武帝は上官桀が自分を愛していると信じて近くに置くようになりました。
この後、上官桀は侍中になり、徐々に出世して位が太僕に至りました。
武帝はかねてからこの三人を愛して信用していたため、特別に抜擢して後事を託しました。
『漢書』の臣瓉によると七十一歳です。
未央宮前殿で入殯(棺に入れること)しました。
こうして五十四年にわたる武帝の時代が終わりました。
武帝は聡明で決断力があり、善く人を用いましたが、法を行ったら容赦がありませんでした。
隆慮公主は病に倒れた時、金千斤と銭千万を献上して昭平君が将来死罪を犯してもあらかじめ償うことを求めました。武帝はこれに同意します。
隆慮公主が死んでから、昭平君は日に日に驕慢になり、酒に酔って主傅(公主の教育官。傅姆)を殺したため、獄に繋がれました。
廷尉は昭平君が公主の子だったため法の執行について武帝に指示を請います。
武帝の近臣は皆こう言いました「以前、金銭を納めて贖罪もしているので陛下は赦すべきです。」
武帝は「わしの妹は老いてからこの一子ができ、死ぬ時にわしに託した」と言って涙を流しましたが、久しく嘆息してからこう言いました「法令とは先帝が造ったものだ。妹のために先帝の法を曲げてしまったら、わしは何の面目があって高廟に入れるだろう。また下は万民を裏切ることになってしまう。」
ところが待詔(官署で待機している官員)の東方朔が武帝を祝いに行ってこう言いました「臣は、聖王が政を為す時、賞は仇讎を避けず、誅は骨肉を選ばないと聞いています。『書(尚書・洪範)』にはこうあります『偏らず派閥を作らなければ、王道が平坦になる(不偏不党,王道蕩蕩)。』この二つは五帝が重視し、三王でも難しかったことですが、陛下は行うことができました。天下の幸甚というものです。臣・朔が觴(杯)を奉じ、死を冒して上(陛下)の万寿を再拝します。」
武帝は東方朔の発言に怒りましたが、暫くすると称賛して中郎に任命しました。
孝武(武帝)は即位したばかりの時、卓越した才気によって百家(諸子の学説)を排斥し(卓然罷黜百家)、六経(儒学の経典。『易』『詩』『書』『春秋』『礼』『楽』)を表彰した。更に海内の誰とでも謀るため(「疇咨海内」。衆人から意見を聞くため)、俊茂(俊才・秀才)を挙げて共に功を立てた。太学を興し、郊祀(天の祭祀)を修め、正朔(正月朔日。歳首)を改めて歴数(暦)を定め、音律を協調させ、詩楽を作り、封䄠(封禅)を行い、百神を礼し(敬い)、周の子孫に跡を継がせた。(武帝の)号令文章は光彩を放っていて語り継がれるべきである(称賛されるべきである。原文「煥焉可述」)。
後嗣(後継者)は洪業(大業)を継承することができ、三代の風(気風)がある。もし武帝の雄材大略をもって文景の恭倹を改めずに斯民(民衆)を救っていたら、『詩』『書』が称賛している者(古代の聖人帝王)も(武帝を)越えられなかっただろう(武帝の雄材大略を称えていますが、恭倹ではなかったことを批判しています)。」
「孝武は奢侈を尽くして欲を極め(窮奢極欲)、刑を厳しくして賦税を重くし(繁刑重斂)、内は宮室(宮殿)で過度な浪費をもたらし(「頻繁に宮殿の建造を行い。」または「宮殿内を過度に壮麗にし。」原文「内侈宮室」)、外は四夷の事に努め(四夷を遠征し。原文「外事四夷」)、神怪を信じて惑わされ、巡遊に度がなく、百姓を疲敝させ、彼等を追いこんで盗賊にさせた。これらの事は秦始皇とほとんど変わらない。しかし秦はこれによって亡び、漢はこれによって興った。
孝武は先王の道を尊重することができ、統守(国を治めて守ること)を理解し、忠直の言を受け入れ、人の欺蔽(欺瞞や隠し事)を憎み、賢人を愛して倦むことなく、誅賞(賞罰)が厳明で、晚年には過ちを改め、相応しい人材に後事を託した。これが亡秦の過失がありながら亡秦の禍を免れることができた理由である。」
次回に続きます。