西漢時代157 昭帝(一) 趙倢伃と昭帝
今回から西漢昭帝の時代です。
孝昭皇帝
趙倢伃の家は河間にありました。
女が来た時、両手が固く握りしめられていました。しかし武帝が自ら拳を開かせると、手の指がすぐに伸びて広がります。
ここから女は幸を得て、「拳夫人」と呼ばれるようになりました。
拳夫人は後宮に入って倢伃になり、鉤弋宮に住みました。そのため鉤弋夫人と呼ばれます。
鉤弋夫人は十四カ月間妊娠して昭帝を産みました。武帝は「昔、堯も十四カ月で生まれたと聞いている。今、鉤弋もそうなった」と言い、昭帝が生まれた鉤弋宮の門を「堯母門」と呼ぶようになりました(武帝太始三年・前94年に書きました)。
後に衛太子が謀反に失敗して廃されました。燕王・劉旦と広陵王・劉胥は過失が多かったため太子に立てられることなく、寵姫・王夫人が生んだ斉懐王・劉閎と李夫人が生んだ昌邑哀王・劉髆は既に死んでいます(衛太子、燕王、広陵王、斉王、昌邑王は劉弗陵の兄です)。
鉤弋子・劉弗陵はまだ五六歳でしたが、壮大多知(体格が良くて聡明なこと)だったため、武帝はしばしば「わしに似ている(類我)」と言っていました。また劉弗陵の出生も普通ではなかったため、特別愛して心中で後継者に立てたいと思うようになりました。しかし劉弗陵はまだ幼く、母も若いため、武帝の死後、女主(皇太后)が専横して国家を乱すことを恐れ、久しく躊躇しました。
ある日、鉤弋倢伃(鉤弋夫人)が武帝に従って甘泉に行幸しました。鉤弋夫人は過失を犯して譴責され、それが原因で憂死します(『史記・外戚世家』と『資治通鑑』では武帝が死を命じています。武帝後元元年・前88年参照)。
鉤弋倢伃は雲陽に埋葬されました。
昭帝始元五年(前82年)に述べますが、昭帝は外祖父・趙父(鉤弋夫人・趙氏の父)を追尊して順成侯に封じました。右扶風に園邑二百家が置かれます(趙父が埋葬された雍門は右扶風に属します)。
また、順成侯には君姁という姉がいたため、昭帝は銭二百万を下賜し、奴婢、第宅(邸宅)を与えて財を充実させました。
諸兄弟(恐らく鉤弋夫人の諸兄弟)にも親疏に応じて賞賜が与えられましたが、封爵を得た者はいませんでした。
次回に続きます。