西漢時代158 昭帝(二) 燕王劉旦 前86年(1)

今回は昭帝始元元年です。二回に分けます。
 
西漢昭帝始元元年
乙未 前86
 
[] 『漢書帝紀』からです。
春二月、黄鵠(黄色味を帯びた白鳥)が建章宮太液池の中に降りました。
公卿が上寿(長寿を祝うこと)し、昭帝が諸侯王、列侯、宗室に序列に応じて金銭を下賜しました。
 
己亥、昭帝が鉤盾弄田で農耕しました。
「鉤盾」は園苑を主管する官吏、またはその官署で、「弄田」は皇帝が宴游するための田地です。
漢書』の注釈によると、昭帝はまだ九歳で、自ら帝籍(帝藉。皇帝が耕す田地)を耕すことができないので、弄田を耕しました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏、益州の夷少数民族・廉頭、姑繒、牂牁、談指、同並(全て西南夷の名です)等、二十四邑に住む三万余人が全て反しました。
朝廷は水衡都尉呂破胡(または「呂辟胡」)を派遣しました。吏民を募り、犍為と蜀郡の「奔命」を動員して討伐します。
益州夷は大破されました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、犍為と蜀郡は益州に属します。
「奔命」というのは朝廷の命を聴いて奔走する勇士を指します。郡国には材官(歩兵)や騎士がおり、緊急時に動員されましたが、それだけでは足りないため、臨時で精勇の者を集めたようです。これが命を聴いて奔走する「奔命」です。
一説では二十歳から五十歳が正常の甲卒となり、五十歳以上六十歳以下の者が奔命として動員されたとも言われていますが、胡三省は「奔命とは救急の師()であり、五十歳以上六十歳以下という年齢にはこだわらなかったはずだ」としています。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
太后(趙氏。鉤弋夫人)のために雲陵太后陵)に園廟を築きました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
有司(官員)が河内郡を冀州に、河東郡并州に属させるように請いました。
二郡とも京師司隷部(首都圏の行政区)に含まれます。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
秋七月、天下に大赦しました。
民百戸ごとに牛酒を下賜しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
大雨が降り、十月まで続きました。
大雨のため渭橋が落ちました。
 
[] 『漢書帝紀漢書武五子伝(巻六十三)』と『資治通鑑』からです。
武帝が死んだばかりの時、昭帝が諸侯王に璽書を下賜しました。
燕王劉旦(昭帝の兄)は璽書を得ても哭泣しようとせず、「璽書の封が小さい(通常の璽書ではない)。京師に変(異変。変事)が起きたのではないか」と言って幸臣の寿西長(寿西が姓、長が名)、孫縦之、王孺等を長安に向かわせました。名目は礼義(恐らく武帝の葬儀と新帝即位に関する儀礼について問うためとされましたが、実際は朝廷の内情を探ります。
 
王孺が執金吾広意(顔師古によると「郭広意」)に会い、武帝は何の病で崩御したのか、誰の子を立てたのか、新帝の歳は幾つか等を問いました。
広意は武帝存命時に五(五柞宮)で詔を待っていた時、宮中が「帝が崩じた」と言って騒ぎだし、諸将軍が共に太子を帝に立てたこと、帝の年は八九歳で、葬時のため朝政には臨んでいないことを話します。
王孺が帰って燕王に報告すると、燕王はこう言いました「上(陛下。武帝)は群臣を棄てて崩御して)語言(遺書)がなかった。蓋主(鄂邑公主。昭帝の姉。西漢昭帝始元三年84年参照)も表に現れない。甚だ怪しいことだ。」
燕王は再び中大夫を京師に派遣して上書しました「孝武皇帝が身をもって聖道を行い、宗廟に孝行し、骨肉を慈愛し、兆民を和集させ、徳は天地に配し、明(英明)は日月に並び、威武が洋溢し(溢れ出し)、遠方も宝物を持って入朝し、数十の郡を増やし、地を開いて倍とし、泰山を封じ、梁父を禅し、天下を巡狩し、遠方の珍物を太廟に並べ、徳が甚だ休盛(美盛)である姿を見てきました。よって郡国に廟を建てることを請います。」
上奏文が報告されると、政治を行っていた大将軍霍光が燕王に銭三千万を褒賜し、一万三千戸を加封しました。
しかし燕王は怒ってこう言いました「わしが帝になるべきなのに、何を下賜するというのだ!」
燕王は宗室に属す中山哀王劉昌の子劉長や斉孝王劉将閭の孫劉澤等と結謀し、武帝時代の詔によって「官吏任免の権利」と「武備を修めて非常事態に備える権利」を得たと偽りました。
 
漢書帝紀』によると、燕王に一万三千戸を加封した時、広陵劉胥(燕王の弟。昭帝の兄)と鄂邑長公主にもそれぞれ一万三千戸を加封しました。
 
以下、『漢書諸侯王表』からです。
中山哀王は劉昌といい、靖王劉勝の子です。劉勝は景帝の子です。
哀王劉昌は即位して二年ほどで死に、当時(昭帝始元元年・前86年)は糠王劉昆侈の代になっていました。燕王と結んだ劉長は糠王の兄弟です。
斉孝王劉将閭は悼恵王劉肥の子で、劉肥は高帝の子です。元々、悼恵王劉肥の後は哀王劉襄と文王劉則が継ぎましたが、文王に後嗣がいなかったため、一時途絶えました。しかし西漢文帝前十六年(前164年)に楊虚侯劉将閭(または「劉将廬」)が悼恵王劉肥の子として斉王に封じられました。これを孝王といいます。
孝王劉将閭は西漢景帝前三年(前154年)の呉楚七国の乱が原因で自殺しました。
景帝は劉将閭の子劉寿を新たに斉王に立てました。これを懿王といいます。
懿王劉寿の死後、厲王劉次昌が継ぎましたが、劉次昌は武帝元朔二年(前127年)に自殺し、跡継ぎがいなかったため、斉王国は廃されました。
その後、武帝は自分の子劉閎を斉王(懐王)に封じましたが、武帝元封元年(前110年)に劉閎が死に、跡継ぎがいなかったため斉王国は再び廃されました。
燕王と結んだ劉澤は劉将閭の孫です。父の名はわかりません。
 
 
 
次回に続きます。