西漢時代159 昭帝(三) 雋不疑 前86年(2)

今回は昭帝始元元年の続きです。
 
[(続き)] 『漢書武五子伝(巻六十三)』と『資治通鑑』に戻ります。
劉長が燕王劉旦に代わって燕の群臣にこう言いました「寡人(燕王)は先帝の休徳(美徳)のおかげで北藩を奉じることができ、自ら明詔を受けて官吏の任免を行い(職吏事)、庫兵(倉庫の兵器)を領有し、武備を整えてきた。任務が重く職責が大きいので、朝も夜も戦戦兢兢としている(夙夜兢兢)。子大夫(汝等大夫)はどうやって寡人を規佐(諫めて補佐すること)するつもりだ。そもそも燕国は小さいといえ、成周西周時代)に建てられた国だ。上は召公西周重臣。召公奭)から下は昭(戦国時代燕国の二王)に及び、今に至るまで千載(千年)になるのに、どうして賢才がいないということがあるだろう。しかし寡人は束帯(帯を締めること。衣冠を正すこと)して朝政を聴くこと三十余年になるのに、(賢才がいるとは)まだ聞いたことがない。それは寡人が及ばない(聞こえていない)からだろうか。子大夫の思いが至っていないからであろうか。咎はどこにあるのだ。今、寡人は邪を正して非を防ぎ、聞いたことを明らかにして和を称揚し(または「和を称揚していることを広くに知らせ」。原文「章聞揚和」)、百姓(民衆)を撫慰し、風俗を改めること(移風易俗)を欲しているが、どの路から始めるべきだろうか。子大夫はそれぞれ心を尽くして答えよ。寡人はそれを考察する。」
群臣は皆、冠を脱いで謝しました。
郎中成軫(『資治通鑑』胡三省注によると、成姓は周文王の子成伯(郕伯。郕叔武)の後代です。周代に成粛公がいました。また、楚の令尹に成得臣がいました)が燕王に言いました「大王は失職(得るべき職を得られないこと。帝位に即けなかったことを指します)しました。立ち上がって求めるしかなく、坐ったまま得られるものではありません。大王が一度立てば、国中においてたとえ女子でも皆、奮臂して(腕を奮って)大王に従うでしょう。」
 
燕王が言いました「以前、高后(呂太后の時代、偽って子弘(劉弘)を皇帝に立て、諸侯が交手(拱手)して八年も仕えたが、呂太后が崩じてから大臣が諸呂を誅殺し、文帝を迎え立てて天下がやっと孝恵の子ではないと知った。わし自身は武帝の長子(二人の兄が死んだため劉旦が最年長になります)なのに立つことができず、上書して廟を建てるように請うたのにそれも聴き入れられなかった。即位した者が劉氏ではないのではないかと疑っている。」
 
燕王は劉澤と謀って姦書を作り、「少帝は武帝の子ではなく、大臣が共に立てたのだ。天下は共にこれを伐つべきである」と公言しました。
人を郡国に送って宣伝し、百姓を動揺させます。
劉澤は斉に帰って臨淄で兵を発し、青州刺史雋不疑を殺すという計画を立てました。その後、燕王と共に決起するつもりです。
当時、斉王国は既に廃されているため、臨淄は斉郡太守と青州刺史の治所でした。
 
燕王は各地の郡国から姦人(素行が悪い者)を招き、銅鉄を集めて甲兵(甲冑武器)を作りました。しばしば車騎材官の卒を閲兵し、旌旗や鼓車を準備し、旄頭(儀仗の騎兵)を先駆させます。また、郎中で侍従する者に貂羽や黄金附蝉をつけさせて全て侍中と称しました。
漢書』の注釈によると、外出時に旄頭が先頭を進むのは天子の制度です。
貂羽は貂尾で作った冠の羽で、附蟬は冠の前につける金蝉です。どちらも天子の侍中がつける飾りです。
 
燕王の相、中尉やそれ以下の官員全てが車騎を操り、民を動員して囲場(狩場)に集合しました。文安県で大規模な狩猟を行います。狩猟は兵馬の訓練が目的です。
こうして燕王は決起の日(劉澤が臨淄で挙兵する時)を待ちました。
郎中韓義等がしばしば燕王を諫めましたが、燕王は韓義等十五人を殺しました。
 
しかしちょうどその頃、缾侯劉成が劉澤等の謀を知りました。
漢書王子侯表』によると、劉成は菑川靖王の子で、諡号は敬侯です。菑川靖王は劉建といい、懿王劉志の子です。劉志の父は斉悼恵王劉肥に当たります。
 
劉成は劉澤等の陰謀を青州刺史雋不疑に報告しました。
八月、雋不疑が劉澤を捕えて朝廷に報告しました。
昭帝は大鴻臚丞(『資治通鑑』胡三省注によると秩千石です)を派遣して調査させ、燕王が関わっていると知りました。
しかし昭帝は詔を発し、親族としての関係が近い燕王を裁かないことを宣言します。
劉澤等は全て誅に伏し、缾侯劉成は加封されました。
 
朝廷は雋不疑を京兆尹に抜擢し、銭百万を下賜しました。
京兆尹は元右内史です。武帝によって改名されました。
「尹」は「正」、「京」は「大」または「京師」、「兆」は「多数」を表します。京兆尹は京師に住む多数の民を正す官という意味で、首都長官に当たります。
 
雋不疑が京兆尹になると、吏民がその威信を敬いました。
雋不疑は管轄下の県を巡行する度に囚人の判決内容を確認しました。
雋不疑の母は県の巡行から戻った雋不疑に必ず「平反(冤罪を晴らすこと)した者がいましたか?何人を活かすことができましたか?」と問いました。雋不疑が平反した者が多ければ母は普段より喜んで笑いましたが、平反した者がいなかったら、母は怒って食事もしませんでした。
そのため雋不疑は官吏として厳格でしたが、残暴にはなりませんでした。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月丙子、車騎将軍金日磾(諡号は敬侯)が死にました。
 
かつて武帝が病を患った時、遺詔を残して金日磾を侯に、上官桀を安陽侯に、霍光を博陸侯に封じることにしました。謀反した馬何羅等を捕えた功績による封侯です。
しかし金日磾は新帝が幼いことを理由に封爵を受けず、霍光等も受けようとしませんでした。
金日磾が病に倒れると、霍光が封侯について昭帝に報告しました。
昭帝は金日磾を封侯しましたが、金日磾は臥したまま印綬を受け取り、一日で死にました。
 
金日磾には二人の子がいました。金賞、金建といい、どちらも侍中です。昭帝と年が近かったため起居を共にしました。
金賞は奉車都尉になり、金建は駙馬都尉になります。
 
金日磾が死んでから金賞が侯位を継ぐことになり、二つの綬(奉車都尉と侯の綬)を佩しました。
昭帝が霍光に問いました「金氏兄弟二人のどちらにも二つの綬を持たせるわけにはいかないか?」
金建も封侯したいという意味です。
霍光が言いました「金賞は父を継いで侯になったのです。」
昭帝が笑って言いました「侯位は私と将軍によって決められるのではないか?」
霍光が言いました「先帝の約(約束。決まり)では、功がある者だけが封侯されることになっています。」
昭帝はあきらめました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
閏月(中華書局『白話資治通鑑』は「閏十月」としています)、昭帝が元廷尉王平等の五人に符節を持たせて(持節)各地の郡国に派遣しました。賢良を推挙し、民の疾苦や冤罪、失職(官吏で職務を全うしていないこと)の状況を問うためです。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
この冬は氷ができませんでした(暖冬でした)
 
 
 
次回に続きます。