西漢時代160 昭帝(四) 匈奴の内争 前85年
今回は昭帝始元二年です。
西漢昭帝始元二年
丙申 前85年
春正月、大将軍・霍光を博陸侯に、左将軍・上官桀を安陽侯に封じました。
ある人が霍光に言いました「将軍は諸呂(呂氏)の事を見ないのですか?(呂氏は)伊尹、周公の位におり、摂政して権勢を専断しましたが、宗室に背いて(皇族を遠ざけて)職(政治)を共にせず、天下の不信を招いたため、最後は滅亡に至りました。今、将軍は盛位におり、帝は春秋に富んでいるので(まだ若いので)、宗室の者を採用し、多くの事を大臣と共にするべきです。諸呂の道の反対を進めば禍患から逃れることができます。」
霍光はこの意見に納得し、宗室で能力がある者を探しました。
楚元王の孫・劉辟彊(または「劉辟疆」)と宗室・劉長楽を光禄大夫に任命し、劉辟彊には長楽衛尉の職務を担当させました(守長楽衛尉。「守」は代理、試用の意味です)。
『資治通鑑』胡三省注によると、漢代は長楽宮、建章宮、甘泉宮にそれぞれ衛尉がおり、宮衛を担当していました。ただし常設ではありません。
楚元王は高帝の弟・劉交です。劉交の死後、子の夷王・劉郢客が継ぎ、夷王が死んでその子・劉戊が継ぎました。劉戊は呉楚七国の乱を起こした楚王です。
劉辟疆は劉富の子です。
霍光は宗室で優れた人材を探した時、劉辟彊の子・劉徳を用いようとしました。劉徳は丞相府で待詔(詔を待つこと。皇帝の命が出るまで待機すること)しており、年は三十余歳です。しかしある人が「父がまだ健在で、しかも先帝の寵を受けていました」と言ったため、劉辟彊を光禄大夫に任命し、長楽衛尉の職務を担当させました。
この時、劉辟彊は既に八十歳で、後に宗正に遷されて数カ月で死にました。
三月、朝廷が使者を各地に派遣し、貧民で穀物の種や食糧がない者を救済しました。
秋八月、昭帝が詔を発しました「往年は災害が多く、今年も蚕や麦が傷ついた。よって振貸した種や食は收責せず(救済のために貸し出した穀物の種や食糧は取り立てせず)、また、民に今年の田租を出すことを要求してはならない(今年の田租を免除する)。」
そこで常々和親を欲していましたが、その機会がありませんでした。
左大都尉の同母兄はこれを怨み、単于庭を訪ねなくなります。
この年、狐鹿孤単于が病を患い、死ぬ前に諸貴人にこう言いました「我が子はまだ幼いから国を治めることができない。弟の右谷蠡王を立てることにする。」
しかし単于が死ぬと衛律等が顓渠閼氏(『資治通鑑』胡三省注によると、単于の正室で、位は大閼氏の上になります)と謀り、喪を隠して偽の単于の令を発表しました。単于の子・左谷蠡王が単于に立てられます。これを壺衍鞮単于といいます。
ところが盧屠王はこれを単于に報告します。
二王はそれぞれの居住地に還り、龍城で会すことがなくなりました。
この後、匈奴は衰弱していきます。
次回に続きます。