西漢時代161 昭帝(五) 上官皇后 前84~83年
今回は昭帝始元三年と四年です。
西漢昭帝始元三年
丁酉 前84年
春二月、西北に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
昭帝が使者を送って鳳凰が集まった地を祀りました。
冬十一月壬辰朔、日食がありました。
霍光と上官桀は以前から仲がよく、霍光が休沐(五日に一回の休暇)で朝廷を出た時は上官桀が霍光の代わりに入朝して政事を裁決していました。
霍光の娘は上官桀の子・上官安に嫁いで娘を生みました。
娘が五歳になったばかりの時、上官安は霍光を通して娘を宮中に入れようとしました。しかし霍光はまだ幼いため同意しませんでした。
当時、昭帝も幼かったため、姉の蓋長公主が世話を見ていました。
『資治通鑑』胡三省注によると、蓋長公主の蓋は蓋県で、泰山郡に属します。長公主は鄂を食邑としたため鄂邑公主といいますが、蓋侯に嫁いだため蓋長公主、または蓋主とも呼ばれました。『漢書・武五子伝(巻六十三)』には「劉旦の姉・鄂邑蓋長公主」とあります。武帝の三男・劉旦の姉なので、それなりの年だったはずです。
蓋長公主は秘かに自分の子の客で河間の人・丁外人(丁は姓、外人は名)を近づけていました。
上官安も丁外人と仲が良かったため、丁外人にこう言いました「安(私)の子は容貌が端正です。もし長主のおかげで機会を得て入宮し、后(皇后)になれたら、臣の父子は朝廷におり(朝廷で勤め)、しかも椒房(皇后)の重(依重。頼り、後ろ盾)を持つことになります。成功するかどうかは足下にかかっています。漢家の故事(前例)では、列侯はしばしば公主を娶っています。足下も封侯されないことを憂いる必要はありません(功績を立てれば封侯され、公主を娶ることができます)。」
丁外人は喜んで長主に話しました。
蓋長公主は納得して詔を発し、上官安の娘を召して倢伃(宮女の階級)にしました。
上官安は騎都尉に任命されます。
西漢昭帝始元四年
戊戌 前83年
春三月甲寅(二十五日)、上官氏(上官安の娘。上官桀と霍光の孫)を皇后に立てました。
上官皇后はわずか六歳です。
夏六月、上官皇后が高廟(高帝廟)を拝謁しました。
長公主、丞相、将軍、列侯、中二千石から郎吏、宗室の全てに、序列に基いて銭帛を下賜しました。
三輔(近畿)の富人を雲陵に遷し、一戸あたり銭十万を下賜しました。
秋七月、昭帝が詔を発しました「連年不作が続いているため(比歳不登)、民は食糧が欠乏し、流庸(故郷を離れて庸作している者)がまだ完全に帰郷できていない。往時は民に馬を提供させていたが、今後はそれを中止し、中都官(京師の諸官府)に供給する馬はその数を減らすことにする。」
西南夷の姑繒、葉楡がまた反しました。
鎮圧に向かった呂辟胡は進軍を止めました。
廷尉・李种が死刑囚の罪を故意に赦した罪(故縦死罪)に坐して棄市に処されました。
この年、上官安が車騎将軍になりました。
『漢書・昭帝紀』を見ると昭帝元鳳元年(前80年)に「票騎(驃騎)将軍・上官安」と書いています。『資治通鑑』は『百官公卿表下』と『外戚伝上(巻九十七上)』に従って「車騎将軍」としています(『資治通鑑』胡三省注参照)。
次回に続きます。