西漢時代162 昭帝(六) 偽太子事件 前82年

今回は昭帝始元五年です。
 
西漢昭帝始元五年
己亥 前82
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、昭帝が外祖父の趙父を追尊して順成侯に封じました。
 
順成侯趙父は鉤弋夫人(昭帝の母)の父です。『資治通鑑』胡三省注は「趙父が既に死んでいたため、追封して食邑三百戸を扶風(地名。趙父の墓があります)に置いた」としていますが、『漢書外戚伝上(巻九十七上)』を見ると「右扶風に園邑二百家を置いた」と書かれているので、胡三省注の「三百戸」は恐らく誤りです。
 
順成侯には君姁という姉がいました。
昭帝は銭二百万を下賜し、奴婢、第宅(邸宅)を与えて財を充実させました。
また諸兄弟(恐らく鉤弋夫人の諸兄弟)にも親疏に応じて賞賜が与えられましたが、封爵を得た者はいませんでした。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
一人の男子が黄犢車(黄色い牛が牽く車)に乗って北闕に現れました。
男子は衛太子を自称しました。衛太子は武帝の元太子劉據です武帝征和二年91年参照)
公車(官名)がこれを昭帝に報告しました。
資治通鑑』胡三省注によると、この北闕は未央宮の北闕で、蕭何によって造られました。未央宮は南を向いていましたが、公車司馬が北闕にいたため、上書、奏事、謁見の者は皆、北闕に向かいました。
公車は衛尉に属し、章奏を受け取りました。
 
昭帝は詔を発して公卿、将軍、中二千石の官員に確認させました。
長安中の吏民で衛太子を見るために集まった者は数万人もいます。
右将軍が闕下で兵を率いて非常事態に備えました。
 
丞相田千秋を始め御史、中二千石で確認に行った者達は誰も何も言いませんでした。
ところが遅れて来た京兆尹雋不疑が従吏を叱咤して捕縛させました。
ある人が「是非はまだ分かりません。待つべきです(且安之)」と言いましたが、雋不疑はこう答えました「諸君は衛太子の何を憂いるのだ(恐れるのだ)。昔、蒯聵が命に背いて出奔すると、輒は(帰国した父・蒯聵を)拒んで国に入れなかった(蒯聵は春秋時代衛霊公の太子で、輒は蒯聵の子です。蒯聵は霊公の罪を得て出奔しました。霊公死後、輒が即位したため、蒯聵は衛に還ろうとしました。しかし子の輒は父の蒯聵を国に入れませんでした)。そして『春秋』はこれを是とした(正しいと判断した)。衛太子は先帝武帝の罪を得た。逃亡して死ぬことなく、今になって自ら訪ねて来たとしても、彼は罪人である。」
男子は詔獄(皇帝が管理する監獄)に入れられました。
 
昭帝と大将軍霍光はこれを聞いて雋不疑を称賛し、「公卿大臣は(雋不疑のように)経術があり(経典に精通しており)大誼大義に明るい者を用いるべきだ」と言いました。
この後、雋不疑の名声が朝廷で重くなり、官位にいる者は皆、自分が雋不疑に及ばないと思いました。
 
廷尉が男子を審問した結果、姦詐だと分かりました。男子は夏陽の人で、姓は成、名は方遂といい、湖県に住んで卜筮で生計を立てていました。
かつて太子の舍人だった者が成方遂に卜をさせた時、「子(汝)の状貌は衛太子にとても似ている」と言ったため、成方遂は心中でこの言を利用できると考え、富貴を得ようとしました。
そこで衛太子を偽って名乗り出ましたが、誣罔(欺瞞)不道の罪で要斬(腰斬)に処されました。
 
尚、『漢書帝紀』では男の名を「張延年」としています。
漢書雋疏于薛平彭伝(巻七十一)』は「成方遂」としており、「あるいは姓は張、名は延年という」と書いているので、『資治通鑑』は列伝に従っています(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
[] 『漢書帝紀』からです。
夏、天下の「亭母馬」と「馬弩関」を廃止しました。
漢書』の注によると、武帝がしばしば匈奴や大宛を討伐したため、多くの馬が死んだり奪われました。そこで、馬を繁殖させるために、天下の諸亭に母馬を養うように命じました。これが「亭母馬」です。
また、当時の制度では、高さ五尺六寸以上で十歳未満の馬(「馬高五尺六寸歯未平」。「歯未平」は歯が平になっていないという意味です。馬は十歳になると歯が落ちて平らになるとされていたようです)と十石以上の弩は関から出すこと(函谷関から東に出すこと)を禁じていました。これが「馬弩関」です。
尚、景帝時代に高さが五尺九寸以上で十歳に達していない壮健な馬が関を出ることを禁止しました西漢景帝中四年146年)。『昭帝紀』の注にある「五尺六寸」は「五尺九寸」の誤りかもしれません。
 
[] 『漢書帝紀漢書外戚伝上(巻九十七上)』と『資治通鑑』からです。
六月、驃騎将軍(または車騎将軍)上官安(皇后の父)を桑楽侯に封じました。
 
上官安は日に日に驕淫になりました。
殿中で褒賜を受けた時は(原文「受賜殿中」。「殿中で帝に食事を下賜された」という意味かもしれません)、退出してから賓客の前で「わしの壻と飲んだ。なんと楽しいことだ(大楽)」と言い、下賜された服飾を見せびらかしました。同時に人を先に帰らせて自分の物を焼き捨てようとしました(原文「使人帰欲自焼物」。誤訳かもしれません)
酔ったら裸で室内を歩き、後母や父の諸良人(妾)、侍御と乱交しました。
子が病死した時は空を仰いで天を罵りました。
上官安はこのように頑悖(頑狂)になっていました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
昭帝が詔を発しました「朕は眇身(微小な身)によって宗廟を獲保し(継承し。保つことになり)、戦戦栗栗として朝早くから夜遅くまで(夙興夜寐)古の帝王の事を修め、『保傅伝(『漢書』の注によると賈誼の作です。『大戴礼記』に収録されています)』には精通したが、『孝経』『論語』『尚書』はまだ明白になったとは言えない。よって三輔、太常に命じ、賢良を各二人、郡国の文学高第(文学の士で成績が優秀な者)を各一人推挙させる。
また、中二千石以下から吏民に至るまで序列に応じて爵を下賜する。」
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
儋耳と真番の二郡を廃しました。
儋耳郡は現在の海南島真番郡は朝鮮に位置します。どちらも武帝時代に置かれました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋、大鴻臚田広明と軍正王平益州を撃ち、三万余人を斬首または捕虜にしました。五万余頭の畜産を捕獲します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
諫大夫杜延年は国家が武帝の奢侈と師旅(軍旅。出征)の後を受け継いでいたため、しばしば大将軍霍光にこう言いました「連年不作が続き(年歳比不登)、流民がまだ全て故郷に還っていないので、孝文時代の政を修め、倹約寬和を示して天心に順じ、民意を喜ばせるべきです。そうすれば年歳(一年の収穫)が応じるでしょう(豊作になるはずです)。」
霍光はこの意見を採用しました。
 
杜延年は元御史大夫杜周の子です。
 
 
 
次回に続きます。