西漢時代163 昭帝(七) 蘇武と李陵 前81年(1)

今回は西漢昭帝始元六年です。二回に分けます。
 
西漢昭帝始元六年
庚子 前81
 
[] 『漢書帝紀』からです。
春正月、昭帝が上林苑で農耕しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春二月、昭帝が詔を発し、有司(官員)に各地の郡国から賢良文学の士を挙げさせ、民が疾苦していること、教化の要になっていることを調査させました。
有司は皆こう報告しました「塩鉄酒榷(塩酒の専売)と均輸官を廃すことを願います。天下と利を争わず、倹節を示せば、その後、教化を興すことができます。」
桑弘羊が反対して言いました「これは国家の大業です。四夷を制して辺境を安定させる費用を充足させるために必要な、根幹となる政策なので、廃すわけにはいきません。」
ここから塩鉄の議(塩鉄会議)が始まりました。
議論の内容は後に桓寛によって『塩鉄論』としてまとめられました。
本年秋七月に酒の専売が廃止されますが、塩と鉄の専売は続けられます。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
漢の使者として匈奴を訪ねた蘇武(『漢書帝紀』は「栘中監蘇武」としています。栘園の馬厩を管理する官、または馬・鷹・犬や狩猟の道具を管理する官のようです)は、匈奴に捕えられて北海で抑留されていました武帝天漢元年100年参照)
食糧の供給が途絶えたため、地を掘って野鼠を探し、野鼠が巣に蓄えた草や実を採って食べていました。
この部分の原文は「掘野鼠去草実而食之」です。鼠が巣に隠した草と実を食べたと解釈する説と、草と実だけでなく鼠も一緒に食べたと解釈する説があります。
 
蘇武は漢節(漢の使者の節)を持って牧羊し、寝る時も起きる時も手から離さなかったため、節旄(牛の尾で作った節の飾り)が全て抜け落ちました。
 
蘇武は漢に居た時、李陵と共に侍中になりました。
後に李陵は匈奴に降りましたが武帝天漢二年99年)、蘇武に会いには行けませんでした。
 
久しくして単于(この時の単于が誰かははっきりしません。李陵が投降した時の単于は且提侯単于ですが、その後、狐鹿姑単于を経由して壺衍鞮単于の代になっています。下の文を見ると武帝存命中の事なので、恐らく狐鹿姑単于だと思われます)が李陵を北海に派遣し、蘇武のために酒宴を開かせました。音楽も奏でられます。
この機会に李陵が蘇武に言いました「単于は陵(私)と子卿(蘇武の字)がかねてから厚い関係にあると聞いたので、派遣して足下を説得させた。虚心によって相待したいと思う(偽りなく語り合いたい)(汝は)結局、漢に帰ることができず、空しく自分を苦しめているが、人がいない地でどうして信義を示すことができるだろう(人がいない地で信義を守って自分を苦しめても、それを知る者は誰もいない)。足下の兄弟二人はこれ以前に事(罪)に坐して自殺した(罪を犯して自殺した)。私が来た時は、太夫(蘇武の母)は既に不幸となり(既に死に)、子卿(蘇武)の婦人は若かったので更嫁(再婚)したと聞いた。女弟(妹)二人と両女一男(二人の娘と一人の息子)がいただけだが、もう十余年が経つので、存亡を知ることはできない。人生とは朝露のようなものだ(朝露のように短くはかない)。なぜそのように久しく自分を苦しめるのだ。
(私)も降ったばかりの時は狂ったように失意し(忽忽如狂)、漢を裏切ったことに心痛した(自痛負漢)。しかも老母を保宮に繋がせることになってしまった(『資治通鑑』胡三省注によると、少府属官に居室があり、武帝時代に保宮に改名されました。李陵の母は逮捕されて保宮に繋がれました)。子卿(蘇武)が降りたくない気持ちがどうして陵(私)を越えるだろう(私もあなたと同じくらい投降したくなかった)。そもそも陛下武帝は春秋が髙く(老齢で)、法令に常がなく、大臣でも罪がないのに数十家が夷滅(族滅)された。(たとえ帰国できたとしても)安危を知ることもできないのに、子卿(蘇武)は誰のためにそのようにしているのだ。」
蘇武が言いました「武(私)の父子は功徳がなかったが、陛下のおかげで成就し、位は将に列し、爵は通侯となり、兄弟も(陛下に)親近された。だから常に肝脳塗地(命を棄てること)を願っている。今、この身を殺して報いることができるのなら、たとえ斧鉞、湯鑊(釜茹で)の刑に処されたとしても、甘んじてそれを楽しもう。臣が君に仕えるのは子が父に仕えるのと同じだ。子は父のために死んでも恨むことはない。これ以上何も言わないでほしい。」
李陵は蘇武と数日にわたって酒宴を開いてから、また言いました「子卿よ、陵の言を一度聴いてくれ。」
蘇武はこう答えました「私は自分が死んで既に久しくなると思っている。王(右校王李陵)がどうしても武を降したいと欲するのなら、今日の歓(酒宴)を終わらせて目の前で命を棄てることを請う(効死於前)。」
李陵は蘇武の至誠を見て嘆息し、「ああ(嗟乎)、彼は義士だ。陵と衛律の罪は天上にも達するほどだ」と言いました。涙が襟を濡らします。
李陵は蘇武に別れを告げて去り、牛羊数十頭を贈りました。
 
後に李陵が再び北海に行きました。蘇武に武帝崩御したことを伝えます。
蘇武は南を向いて血を吐くほど号哭しました。
毎日朝と夜に哀哭し、数カ月それを続けます。
 
 
 
次回に続きます。