西漢時代166 昭帝(十) 燕王事件 前80年(2)

今回は昭帝元鳳元年の続きです。
 
[(続き)] 上官桀等は強引な策をとることにしました。
まず長公主が酒宴を開いて霍光を招きます。そこに伏兵を置いて格殺(撃殺)し、昭帝を廃して燕王劉旦を天子に迎えるつもりです。
劉旦は駅書を置いて燕国と京師の間で情報を往来させました。成功したら上官桀を王に立てることを約束します。更に外部では各郡国の豪桀と連絡を取り合い、その数は千人を数えました。
 
劉旦が燕相(平は名。姓氏は不明です)に話すと、平はこう言いました「大王は以前、劉澤と結謀しましたが、事が成功する前に発覚したのは、劉澤がかねてから夸(軽薄。または奢侈)で侵陵(人を虐げること)を好んだからです。平(私)は左将軍(上官桀)もかねてから軽易(軽率)で、車騎将軍(上官安)は若いのに驕っていると聞いています。臣は劉澤の時のように成功しないことを恐れ、また成功しても大王を裏切るのではないかと恐れています。」
劉旦が言いました「以前、一人の男子が闕を訪ねて故太子を自称したら、長安中の民が走って集り、喧騒が絶えなかった。大将軍はこれを恐れたため、自分を守るために兵を出して陣を構えた。わしは帝の長子であり、天下の信を受けている。なぜ反対されることを憂いるのだ(旧太子を自称する者がいただけで長安中が騒動になって霍光を恐れさせたのだから、自分が立ち上がったら失敗するはずがない)。」
後に劉旦が群臣に言いました「蓋主(長公主)の報せが来た。患いるべきは大将軍と右将軍王莽(『資治通鑑』胡三省注によると、王莽は天水の人で字は稚叔です)だけだが、右将軍は物故し(既に死に)、丞相(田千秋)も病を患った。幸事(好事)は必ず成功する。徵(兆。結果)がすぐに現れるはずだ。」
劉旦は群臣に上京の準備をさせました。
 
一方で上官安は更に異なる陰謀を抱いていました。燕王を誘い出してから誅殺し、その機会に昭帝も廃して父の上官桀を擁立するつもりです。
ある人が問いました「皇后はどうしますか?」
昭帝の皇后は上官安の娘です。
上官安はこう答えました「麋(大鹿)を追う狗がどうして菟(兔)を顧みていられるか(逐麋之狗,当顧菟邪)。そもそも皇后を使って尊位を得たとしても、一旦人主の意が他に移ってしまったら、家人(庶民)になりたいと思ってもなれなくなってしまう。これは百世に一時の好機だ。」
 
ちょうどこの頃、蓋主の舍人の父で稲田使者を勤める燕倉という者が陰謀を知りました。
資治通鑑』胡三省注によると、朝廷は諸稲田に使者を置いて税収を管理させました。胡三省は「假與民收其税入也」と書いています。「假與民」というのは「民に公田を貸し与えた」という意味だと思います。全ての稲田に使者を送ったのではなく、朝廷が民に貸し出した稲田を対象に使者を派遣して、税収を管理させたようです。
燕氏は西周の召公が燕に封じられ、その子孫が国名を氏にしました。
 
燕倉は大司農楊敞に報告しました(稲田使者は大司農に属すようです)
ところが楊敞は元から慎重な性格で変事を恐れていたため、朝廷に報告する勇気がなく、上書して病と称し、寝込んでしまいました。
但し諫大夫杜延年にはこの事を伝えます。
杜延年は昭帝に報告しました。
 
九月、昭帝が詔を発し、丞相田千秋に中二千石の官吏を率いて孫縦之および上官桀、上官安、桑弘羊、丁外人等を逮捕させました。宗族も併せて全て誅殺されます。
蓋主は自殺しました。
 
これを聞いた燕王劉旦は相平を召して「事は失敗した。すぐに兵を発すべきか?」と問いました。
平が言いました「左将軍は既に死に、百姓も皆これを知っています(謀反が失敗したことを知っています)。兵を発すべきではありません。」
燕王は憂懣(憂鬱)になり、酒宴を開いて群臣や妃妾に別れを告げました。
そこに昭帝が璽書を送って劉旦を譴責したため、劉旦は綬(印璽の紐)で首を縛って死にました。
王后や夫人(妃妾)で劉旦に続いて自殺した者は二十余人いました。
 
昭帝は恩恵を加えて燕王太子劉建を庶人に落としました(下述)
劉旦には剌王という諡号が贈られます。『資治通鑑』胡三省注によると、「剌」という諡号は「暴戾無親(強暴残忍で人の情がないこと)」を意味します。
 
上官皇后はまだ幼く、陰謀に関与しなかったうえ、霍光の外孫でもあるため、廃されませんでした。
 
[] 『資治通鑑』からです。
庚午(初二日)、右扶風王訢が御史大夫になりました。
桑弘羊が処刑されたためです。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、昭帝が詔を発しました「左将軍安陽侯(上安桀)、票騎将軍桑楽侯(上官安)御史大夫弘羊(桑弘羊)は皆、しばしば邪枉(邪曲の事)によって輔政(霍光による朝政)に干渉したが、大将軍(霍光)がそれを聴かなかったため怨望を抱くようになり、燕王と通謀し、駅を置いて往来し、互いに約を結んだ。燕王は寿西長(寿西が姓、長が名)、孫縦之等を派遣して長公主、丁外人、謁者杜延年(諫大夫・杜延年とは別人です)、大将軍長史公孫遺等に賄賂を贈り、私書を通じさせ、共に謀って長公主に酒を置かせ(酒宴を開かせ)、兵を伏せて大将軍(霍光)を殺害し、燕王を招いて天子に立てようとした。大逆毋道(無道)である。しかし稲田使者燕倉が先に気がつき、大司農(楊敞)に報告したため、敞は諫大夫延年(杜延年)に報告し、延年がこれを上奏した。丞相徵事任宮がその手で桀(上官桀)を捕斬し、丞相少史王寿が安(上官安)を誘って府門(丞相府門)に入れたおかげで、皆既に誅に伏し、吏民が安寧を得ることができた。よって延年、倉、宮、寿を皆列侯に封じる。」
 
こうして諫大夫杜延年は建平侯に、稲田使者燕倉は宜城侯に、丞相徵事任宮は弋陽侯に、丞相少史王山寿は商利侯に封じられました。
資治通鑑』胡三省注によると、徵事の秩は比六百石です。かつて二千石の官吏で贓罪(貪汚の罪)で罷免された者以外は徵事となりました。
丞相少史は武帝が置きました。秩四百石です。
 
なお、『漢書帝紀』では、任宮は「丞相徵事」ですが、『資治通鑑』は「故(元)丞相徵事」としています。
また、「王寿」は『漢書帝紀』の記述で、『資治通鑑』では「王山寿」です。
資治通鑑』は『漢書景武昭宣元成功臣表』に従っているようです。
以下、『景武昭宣元成功臣表』からです。
七月(恐らく「十月」の誤りです)甲子、諫大夫杜延年を建平侯に封じました。諡号は敬侯です。
同日、假(代理)稲田使者燕倉を宜城侯に封じました。諡号は戴侯です。
同日、故(元)丞相徵事任宮を弋陽侯に封じました。諡号は節侯です。
同日、丞相少史王山寿を商利侯に封じました。後に罪を犯して廃されるため諡号はありません。
 
漢書公孫劉田王楊蔡陳鄭伝(巻六十六)』によると、楊敞は九卿でありながら報告しなかったため、封侯されませんでした。
 
昭帝が再び詔を発しました「燕王は迷惑(昏迷)して道を失い、以前、斉王の子(実際は斉孝王劉将閭の孫)劉澤等と逆を為したが、(罪状を)抑えて公開せず、王が正道に返って自ら改めることを願った(反道自新)。ところが今回、長公主および左将軍桀等と宗廟を危うくすることを謀った。王および公主は皆、自ら辜(罪)に伏した。王の太子建、公主の子文信および宗室の子で燕王、上官桀等と謀反した者の父母同産(兄弟)に当たり罪に坐すべき者(謀反した宗室の子弟の父母や兄弟で、本来なら連座する立場にいる者。原文「宗室子與燕王、上官桀等謀反父母同産当坐者)(死罪を)赦し、皆(官職爵位を)免じて庶人と為す。その吏(上官桀等の属吏)で、桀等のために詿誤(巻添えになって過ちを犯すこと)した者の内、その罪が吏(官吏獄吏)に見つかっていない(逮捕されていない者)は、罪を除くことにする。」
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
久しくして文学の士で済陰の人魏相が昭帝の問いに答えて言いました「以前、燕王が無道を為し、韓義が身を挺して強く諫めたため王に殺されました(昭帝始元元年86年)。韓義は比干(商王紂の叔父。商王紂を諫言して殺されました)の親(親族としての関係)がないのに比干の節を守りました。その子を顕賞して天下に示し、人臣の義を明らかにするべきです。」
韓義の子韓延寿は抜擢されて諫大夫になりました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
大将軍霍光は朝廷に旧臣がいなくなったため、新たに人材を探しました。
光禄勳・張安世は先帝武帝時代に尚書令を勤め、志行が純篤だったため、霍光は昭帝に報告してから張安世を右将軍兼光禄勳に任命して自分を補佐させました。
張安世はかつて御史大夫を勤めた張湯の子です。
 
霍光は上官氏の謀反を告発した杜延年に忠節があると判断し、抜擢して太僕右曹給事中にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、太僕は正卿です。右曹と給事中は加官(兼任の官)です。
左右曹は尚書の政務を処理する官です。給事中は皇帝に侍って質問に答えました。位は中常侍の下で、禁中に出入りできました。
 
以下、『漢書杜周伝(巻六十)』と『資治通鑑』からです。
霍光は厳格な刑罰を行いましたが、杜延年は常に寛大な態度で霍光を補佐しました。
吏民が国家の便宜(便利)となる事を上書し、異論が出た時は、いつも杜延年に提出して可否を検討してから再び昭帝に上奏しました。
上書後に試しに官吏として用いられることになった者は、ある者は県令の地位に昇り、ある者は丞相や御史に任用されました。試用期間が満一年になったら状況を朝廷に報告させます。罪を犯した者は法に基づいて裁かれました。
杜延年はしばしば両府(丞相府と御史府)および廷尉と分章しました(分担して「章」を処理しました。「章」は案件を意味します。上書して官吏になってから罪を犯した者に対して、太僕の杜延年も丞相、御史、廷尉と一緒に案件を処理しました。太僕は本来、皇帝の車馬や各地の畜牧を管理する官です)
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
この年、匈奴が左右二部から二万騎を動員し、四隊に分けて漢の辺境に同時に侵入させました。
しかし漢兵が追撃して九千人を斬首または捕獲し、甌脱王を生け捕りにしました。漢には損失がありません。
匈奴は甌脱王が漢に住むようになったため、漢軍を先導して攻めて来るのではないかと恐れました。
この後、遠く西北に去り、南下して水草を探すことがなくなりました。
 
漢は人民を動員して甌脱の地に駐屯させました。
 
 
 
次回に続きます。