西漢時代167 昭帝(十一) 前79年

今回は昭帝元鳳二年です。
 
西漢昭帝元鳳二年
壬寅 前79
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、昭帝が建章宮から未央宮に遷り、大きな酒宴を開きました。
 
郎、従官に帛を下賜し、宗室の子に一人当たり銭二十万を下賜しました。
吏民で牛酒を献上した者には一人当たり一匹の帛を下賜しました。
 
六月、天下に大赦しました。
 
昭帝が詔を発しました「朕は百姓が未贍(不足)であることを憐れみ、前年、漕(水路での食糧輸送)三百万石を減らした(民の労役を減らすことになります)。また、乗輿馬(皇帝の車を牽く馬)および苑馬も大きく削減し、辺郡三輔の伝馬(駅馬)を補充した。今、郡国に対して今年の馬口銭(馬の所有税)を徴収させないように命じ、三輔と太常の郡(太常は諸陵園を管理する官で、陵園がある地域を治めていました。太常が管轄する地も三輔の郡と同じように賦税が徴収されます)は叔粟(「叔」は「菽」で豆類。「粟」は穀物です)を賦に当てることを許可する(賦銭の代わりに豆や穀物を納めることを許す)。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、匈奴が九千騎を派遣して受降城に駐屯させ、漢に備えました。
今後、緊急で撤退する必要がある場合、北の余吾水を渡らなければならないため、橋を造りました。
 
匈奴は漢との和親を求めようとしていましたが、漢に拒否されることを恐れて先に言い出せませんでした。
そこで壺衍鞮単于はしばしば左右の者を使って漢の使者に婉曲に和親の意を伝えました。
また、侵盗をますます少なくし、漢の使者を厚く遇すことで、徐々に和親の目的を達成させようとしました。
漢も戦争を避けて羈縻(籠絡)するようになりました。
 
但し、戦争は翌年以降も繰り返されます。
 
 
 
次回に続きます。