西漢時代169 昭帝(十三) 傅介子 前77年

今回は昭帝元鳳四年です。
 
西漢昭帝元鳳四年
甲辰 前77
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月丁亥(初二日)、昭帝が元服しました(帝加元服
 
「元」は首(頭)、「服」は衣冠を着用することを表すので、「元服」は冠礼(成人して始めて戴冠する儀式)の意味になります。
この時、昭帝は十八歳でした。
 
昭帝は高廟を拝謁してから、諸侯王、丞相、大将軍、列侯、宗室以下吏民に至るまで、序列に応じて金帛牛酒を下賜しました。
また、中二千石から天下の民に至るまで爵を下賜しました。
更に元鳳四年と五年は口賦(十四歳以下の人頭税を徴収しないこと、三年以前の更賦をまだ納められていない者からは回収しないことを決めました。
漢書』の注によると、漢代は七歳から十四歳の民が一人当たり二十三銭を納めることになっていました。これを口賦銭といいます(十五歳以上は一算百二十銭を納めます)。二十三銭のうち、二十銭は以前から天子に納められており、三銭は武帝が車騎馬の費用に当てるために徴収することにしました。
「更賦」は兵役に就く代わりに払う賦税です。
 
天下に五日間の酺(宴)を命じました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
甲戌(中華書局『白話資治通鑑』は「甲戌」を恐らく誤りとしています)、丞相富民侯田千秋(定侯)が死にました。
当時の政事は大将軍霍光一人が裁決しており、田千秋は丞相の位にいても慎重温厚で自分の身を守っているだけでした。
 
[] 『漢書百官公卿表下』からです(なぜか『資治通鑑』には記述がありません)
二月乙丑、御史大夫王訢が丞相に、大司農楊敞が御史大夫になりました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
五月丁丑(中華書局『白話資治通鑑』は「丁丑」を恐らく誤りとしています)、孝文廟正殿で火災がありました(原文「孝文廟正殿火」)
資治通鑑』胡三省注によると、人為的な失火でした。
 
昭帝および群臣が全て素服(白服。喪服)になりました。
昭帝は中二千石の官員を動員し、彼等に五校を指揮させて修築しました。
資治通鑑』胡三省注によると、将作大匠の属官に左中の五校令がおり、五校士(恐らく工匠)を管理していました。
中二千石が指揮した五校は五校士を指します。
 
六日で正殿の修築が終了しました。
 
太常(宗廟や祭祀を管理する官)と廟令丞、郎、吏が大不敬の罪で弾劾されましたが、ちょうど大赦があったため(下述)、太常轑陽侯徳は死罪を免じられて庶人になりました。
 
漢書百官公卿表下』によると、太常は轑陽侯江徳といいます。
廟郎が夜の間に酒を飲んで失火し、その罪に坐して罷免されました。
 
漢書酷吏伝(巻九十)』や『資治通鑑』胡三省注も轑陽侯を「江徳」としていますが武帝征和三年90年参照)、『漢書景武昭宣元成功臣表』を見ると轑陽侯は武帝征和三年(前90年)に「江喜」が封じられています。
その六年後には江仁が継ぎ、西漢元帝永光四年(前40年)に侯位を廃されます。
『景武昭宣元成功臣表』には江徳の名も、太常になってから廃されて庶人になったことも書かれていません。
 
[] 『資治通鑑』からです。
六月、天下に大赦しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
西域に杅という国があり、太子頼丹を人質として亀茲に送っていました。
資治通鑑』胡三省注によると、亀茲国の都は延城で、長安から七千四百八十里離れていました。
 
貳師将軍李広利が大宛を撃って帰還した時武帝太初四年101年)、頼丹を連れて京師に入りました。
後に霍光が桑弘羊による輪台屯田の策武帝征和四年89年)を採用し、頼丹を校尉に任命して輪台で軍を指揮して屯田させました。
 
それを知った亀茲の貴人姑翼が亀茲王にこう言いました「頼丹は本来、我が国に臣属していました。今、漢の印綬を佩して戻り、我が国に近接して屯田を始めました。必ず害になります。」
亀茲王は頼丹を殺し、漢に謝罪の上書をしました。
 
この頃、楼蘭王が死にました。
先にそれを知った匈奴楼蘭の質子(人質)安帰(または「常帰」)を帰国させて楼蘭王に立てました。
 
漢は使者を送って楼蘭の新王に詔を下し、入朝を命じました。しかし楼蘭王は辞退して入朝に来ません。
 
楼蘭国は西域の東端にあり、漢と近接していました。両国の間には水草が乏しい白龍堆(沙漠の名)がありましたが、楼蘭は常に自ら導(道案内)を派遣したり水や食料を運んで漢の使者を送迎していました。しかししばしば漢の吏卒に侵犯されたため、警戒心を抱いて漢との通行には利がないと考えるようになりました。
後には匈奴の反間(離間工作)も受けたため、度々漢の使者を遮って殺すこともありました。
 
楼蘭王の弟尉屠耆が漢に投降してこのような状況を詳しく報告しました。
漢の駿馬監を勤める北地の人傅介子が使者として大宛に行くことになっていたため、昭帝は詔を発して傅介子に楼蘭と亀茲を譴責させました。
資治通鑑』胡三省注によると、駿馬監は太僕の属官です。
傅氏は傅巖(地名)の出身で、地名を氏にしました。
 
傅介子は楼蘭と亀茲に入って王を譴責しました。両国の王が謝罪して服します。
傅介子は大宛に行ってから、帰る途中に再び亀茲に入りました。ちょうど烏孫から来た匈奴の使者が亀茲に滞在していました。
傅介子は自分の吏士を率いて匈奴の使者を斬り殺しました。
傅介子が帰国して報告すると、昭帝は詔を発して傅介子を中郎に任命し、平楽監に遷しました。
平楽監は平楽観の監督です。平楽観は上林苑の宮観です。
 
傅介子が大将軍霍光に言いました「楼蘭も亀茲もしばしば反覆(裏切り)しているので、誅さなかったら懲艾(懲罰。戒め)になりません。介子(私)が亀茲を通った時、その王は人(他人)を近づけて親しくしていたので(其王近就人)、容易に得ることができます。亀茲に行って王を刺し、威を諸国に示すことを願います。」
霍光が言いました「亀茲の道は遠い。まずは楼蘭で試してみよう。」
霍光は昭帝に報告してから傅介子を派遣しました。
 
傅介子と士卒は金幣を携えて出発し、外国に下賜するという名分を公言しながら楼蘭に至りました。
しかし楼蘭王は傅介子と親しくするつもりがありません。
そこで傅介子は楼蘭を去るふりをして西の国境まで移動し、訳(通訳)から楼蘭王にこう言わせました「漢の使者は黄金、錦繡を持っており、道を進みながら諸国に下賜している。王が受け取りに来ないなら、私はここを去って西国に行くだけだ。」
傅介子は金幣を出して訳者に見せます。
訳者が帰って王に報告すると、王は漢の財物を欲して使者(傅介子)に会いに行きました。
傅介子は楼蘭王と一緒に坐って酒を飲み、財物を並べて示しました。
皆が酒に酔った頃、傅介子が楼蘭王に言いました「天子は私から王に秘かに言葉を伝えさせました。」
楼蘭王は立ち上がると傅介子に従って帳の中に入り、人払いをしてから話を始めました。
すると壮士二人が現れて楼蘭王を後ろから刺しました。二人の刃が体を貫いて胸の前で交わり、王は即死します。
楼蘭の貴臣や近臣は全て逃走四散しました。
傅介子は楼蘭王が漢に背いた罪を宣言し、「天子がわしを派遣して王を誅殺させた。改めて漢にいる王の弟尉屠耆を立てる。漢兵はすぐに至る。妄りに動いてはならない。(命に従わなかったら)自ら国を滅ぼすことになるだろう」と言いました。
 
傅介子は楼蘭安帰の首を斬り、伝馬を駆けさせて宮闕に送りました。首が北闕の下に掲げられます。
 
こうして尉屠耆が王に立てられました。国名が楼蘭から鄯善に改められます。
漢は尉屠耆のために王の印章を作り、宮女を下賜して夫人とし、更に車騎輜重を準備しました。
丞相王訢が百官を率いて横門外(『資治通鑑』胡三省注によると、長安城北の西側第一門)まで送り、祖(道を祀る儀式)を行って帰国させます。
 
鄯善王が自ら昭帝に請いました「私の身は漢にいて久しいので、今帰っても単弱(孤立して勢力が弱いこと)です。しかも前王の子もいるので、殺されるのではないかと恐れています。国内に伊循城があり、その地は肥美(肥沃)なので、漢が一将を派遣して屯田積穀し、臣がその威重を頼りにできることを願います。」
漢は司馬一人と吏士四十人を送って伊循で屯田させ、鄯善を鎮撫しました。
 
秋七月乙巳(二十三日)、昭帝が范明友を平陵侯に、傅介子を義陽侯に封じました。
 
漢書帝紀』にこの時の昭帝の詔が紹介されています「度遼将軍明友は以前、羌騎校尉として羌王君長以下を指揮し、益州の反虜を撃った。後にまた(兵を)率いて武都の反氐を撃ち、今回は烏桓を破って斬虜獲生(敵を斬って捕虜を得ること)という功を挙げた。よって明友を平陵侯に封じる。
平楽監傅介子は符節を持って使者になり、楼蘭安帰を誅斬して首を北闕に掲げたので、義陽侯に封じる。」
 
漢書帝紀』はこの詔を夏四月の事としています。しかし『漢書景武昭宣元成功臣表』では秋七月乙巳に二人が封侯されており、『資治通鑑』は年表に従っています。
 
資治通鑑』を編纂した司馬光は傅介子をこう評しています。
「王者が戎狄に対す時は、背いたら討伐し、服従したら自由にさせるものだ(原文「服則舍之」。服したら捨てるものだ)楼蘭王はすでにその罪に服して再び従ったのに、誅殺してしまった。これでは今後、叛する者がいても、彼等を得て懐柔することはできなくなるだろう。相手に罪があって討伐する必要がある場合は、師(軍)を並べて誓いを告げ(「陳師鞠旅」。ここでは正々堂々と出征するという意味です)、罰を与えることを明らかにしなければならない。今回は使者を送って金幣で誘い出し、相手を殺したが、今後命を奉じて諸国に赴いた者は二度と信頼されなくなるだろう。しかも大漢の強(強盛。強大な国力)がありながら盗賊の謀(卑怯な奸計)を為して蛮夷に対すとは、羞ずべきことではないか。ある者はこの事を評価して傅介子の奇功を賛美しているが、誤りである。」
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代170 昭帝(十四) 前76~75年