西漢時代170 昭帝(十四) 前76~75年
今回は西漢昭帝元鳳五年と六年です。
西漢昭帝元鳳五年
乙巳 前76年
夏、大旱に襲われました。
六月、三輔(近畿)と郡国の悪少年(無頼の子弟。素行の悪い若者)で、官吏に告発弾劾されて逃亡している者を徴集し、遼東に駐屯させました。
秋、象郡を廃し、その地を分割して鬱林郡と牂柯郡に属させました。
冬十一月、大雷が落ちました。
十二月庚戌(初六日)、丞相・宜春侯・王訢(敬侯)が死にました。
西漢昭帝元鳳六年
丙午 前75年
春正月、郡国から徒(服役の徒)を募り、遼東と玄菟に築城しました。
夏、天下に大赦しました。
昭帝が詔を発しました「穀物の値が下がったら農家を傷つけることになる(穀賎傷農)。今、三輔と太常の穀物が減賎した(価値が下がった)。よって叔粟(「叔」は「菽」で豆類。「粟」は穀物です)を今年の賦に当てることにする。」
『漢書』の注によると、太常は諸陵園を管理する官です。陵園には天下の豪族富民が遷されており、陵邑は県になったので、太常が管轄する地域も三輔と同じように賦税を徴収されました。
右将軍・張安世が宿衛として忠謹だったので富平侯に封じられました。
張安世は昭帝元鳳元年(前80年)に右将軍兼光禄勳になりました。光禄勲は宮殿門戸の宿営の官です。
烏桓が再び辺塞を侵しました。
次回に続きます。