西漢時代171 昭帝(十五) 昌邑王劉賀 前74年(1)

今回は昭帝元平元年です。六回に分けます。
 
西漢昭帝元平元年
丁未 前74
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月、昭帝が詔を発しました「天下は農桑を本としている。最近、労役を抑え(省用)、不急の官(不用な官員)を廃し、外繇(外徭。辺境の兵役)を減らしたので、耕桑の者(農民)がますます増えたが、百姓はまだ家給(自給)できない。朕はこれを甚だ憐憫する。よって口賦銭(十四歳以下の人頭税を減らすことにする。」
有司(官員)が口賦銭の十分の三を減らすように請い、昭帝はこれに同意しました(減口賦銭什三)
 
昭帝元鳳四年(前77年)にも書きましたが、漢代は七歳から十四歳の民が一人当たり二十三銭を納めることになっていました(十五歳以上は一算百二十銭を納めます)。これを「口賦」といいます。二十三銭のうち、二十銭は以前から天子に納められており、三銭は武帝が車騎馬の費用に当てるために徴収することにしました。
今回、賦銭の十分の三を減らしましたが(減什三)、二十三銭は割り切れないので、二十銭の十分の三が減らされたのだと思います。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
甲申早朝、月のように大きな流星がありました。衆星が流星に従って西行しました。
 
漢書天文志』はこう解説しています。
「大星が月のようであるというのは大臣の象である。衆星がそれに従ったというのは、衆(人々)が皆追従することを意味している。天文は東行を順とし、西行を逆とする。これは大臣が権勢を行って社稷を安定させようと欲しているのである。」
ここでいう大臣は霍光を指します。
 
[] 『漢書・昭帝紀』『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月癸未(十七日)、昭帝が未央宮で死にました。
 
漢書帝紀』の注(臣瓉)は昭帝の享年を「二十二歳」としていますが、顔師古が「二十一歳」に訂正しています。
昭帝は八歳で即位して翌年に改元しました。昭帝始元元年(前86年)は九歳です。よって、享年は二十一歳になります。
 
昭帝には後嗣がいませんでした。
当時、武帝の子は広陵劉胥だけが存命でした。
大将軍霍光が群臣と新帝について議論すると、群臣は広陵王を支持します。
しかし広陵王は元々行動が道を失っていたため、先帝武帝は太子に選びませんでした。霍光は劉胥の擁立に心中で不安を抱きます。
すると郎が上書して言いました「周太王は太伯(呉国の始祖。王季の兄)を廃して王季を立て、文王は伯邑考(文王の長子)を捨てて武王を立てました。宜(義)さえ存在していれば、長を廃して少を立てることも許されるのです。広陵王は宗廟を継承するべきではありません。」
郎の上書は霍光の意に合っていたため、霍光はこの書を丞相楊敞等に示し、郎を九江太守に抜擢しました。
 
武帝には六人の子がいました。劉據、劉閎、劉旦、劉胥、劉髆、劉弗陵です。
劉據は武帝の太子になりましたが、謀反に失敗して自殺しました。
劉閎(懐王)は斉王になりましたが、武帝の時代に死にました。跡継ぎはいません。
劉旦(剌王)は燕王になりましたが、昭帝の即位に不満を抱いて謀反し、失敗して自殺しました。
劉胥は上述の広陵王です。
劉髆(哀王)は昌邑王になりました。武帝の時代に死に、子の劉賀が昌邑王を継いでいます。
劉弗陵は昭帝です。
 
霍光等は昌邑王劉賀を擁立することにしました。
即日、霍光が皇后(上官皇后)の詔を受けて行大鴻臚事(大鴻臚代行)少府楽成(『資治通鑑』胡三省注によると「史楽成」)、宗正劉徳、光禄大夫丙吉、中郎将軍利漢(姓氏は不明です)を派遣し、昌邑王劉賀を迎え入れさせました。楽成等は七乗の伝車(駅車)に乗って長安長安の昌邑王邸)に向かいます。
 
また、霍光が皇后に進言して右将軍張安世を車騎将軍にしました。
 
[] 『漢書・昭帝紀』『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
霍光等は広陵劉胥の素行の悪さを嫌って昌邑王劉賀を擁立することにしましたが、劉賀も国内でかねてから狂縦なふるまいがあり、行動に節がありませんでした。
武帝の喪中にも劉賀は外遊狩猟を止めることなく、かつては方與県(『資治通鑑』胡三省注によると方與県は本来山陽郡に属しましたが、武帝が山陽郡を昌邑王国にしたため、方與県も昌邑王国に属すことになりました)で遊んで半日もかけずに二百里を疾駆したこともありました。
中尉で琅邪の人王吉が上書し、諫めてこう言いました「大王は書術を好まず逸游(放縦遊楽)を楽しみ、車馬を操って(「馮式撙銜」。「馮式」は「憑軾」で、車前の横木に体を寄せること。車を走らせるという意味です。「撙銜」は馬の手綱を操ることです)馳騁(疾走。疾駆)を止めることなく、口を叱咤によって疲れさせ、手を箠轡(馬鞭)によって苦しませ(馬鞭を握り続けて手を痛め)、身を車輿によって労苦させ、朝は霧露を冒し、昼は塵埃を被り、夏は大暑に暴炙され(日に焼かれ)、冬は風寒に匽薄され(侵され)、しばしば柔脆な玉体をもって勤労(辛苦)の煩毒(患害)を犯しています。これでは寿命の宗(貴い寿命)を全うすることができず、仁義の隆(高尚な仁義)を進めることもできません。広廈(大きい屋根)の下、細旃(毛が細くて柔らかい絨毯)の上で、明師が前におり、勧誦が後にあり(明師の指導の元、経典を学んでそらんじ)、上は唐虞の際(堯舜の時代)を論じ、下は殷周の盛に至り、仁聖の風を考え、治国の道を習い、喜んで(学業に)発憤して食事も忘れ、日々自分の徳を新たにする、このような楽しみが銜橛(馬を駆けさせて狩猟すること)の間にあるでしょうか。休んだら俛仰屈伸(「俛仰」も屈伸の意味です)して形(体)を利し、進退の際は歩趨(歩いたり小走りすること)によって下肢を充実させ、新鮮な空気を吸って古い空気を吐くことで臧五臓を練し(気を整え)、専意積精して(心を集中させて精気を集めることで)(精神)を適させ(和ませ)、このようにして養生すればどうして長命にならないでしょう。大王がこれらのことに留意すれば、心には堯舜の志ができ、体は喬松(仙人伯喬と赤松子)の寿をもち、美声広誉(広く知られた名声)が拡がって上(陛下)にも知られるようになります。そうなったら福禄がそろって訪れ、社稷が安泰になります。皇帝(昭帝)は仁聖なので今に至るまで思慕して怠ることがなく(今でも武帝を想っており)、宮館、囿池、弋猟(狩猟)の遊楽は未だに行っていません。大王は夙夜とも(朝も夜も)これを考えて聖意に従うべきです。諸侯の骨肉において、大王ほど親しい関係はなく、大王は属(親族関係)においては(陛下の)子と同じであり、位においては臣の立場にいます。一身において二任の責加(二つの重い責任)があるのです。よって(国内で)恩愛を施して義を行うという点に置いて、わずかでも不足があってそれを上(陛下)に知られることになったら、饗国(享国。国を擁すこと)の福とはなりません。」
昌邑王が令を下して言いました「寡人の造行(品行)には惰(怠惰。怠慢)がなかったとは言えない。中尉は甚だ忠である。しばしばわしの過失を補った。」
昌邑王は謁者千秋を送って中尉に牛肉五百斤、酒五石、脯(干肉)五束を下賜しました。
しかしこの後も昌邑王の放縦は変わりませんでした。
 
郎中令で山陽の人龔遂(『資治通鑑』胡三省注によると、龔氏は春秋時代の晋に大夫龔堅がいました)は忠厚剛毅で大節があり、内は王のために諫争し、外は傅相を譴責しました。経義を引用して禍福を述べ、涕泣することもあります。
龔遂の諫言は止むことなく、王の面前でも過失を責めました。
しかし王は耳を塞いで立ち上がり、「郎中令は人を辱めるのが得意だ(善媿人)」と言うと、走って逃げてしまいました。
 
昌邑王が騶奴(車夫。または車を警護する者)や宰人(料理人)と長い間遊んで共に飲食したことがありました。賞賜も際限なく与えます。
龔遂は王に会うために入宮し、涕泣しながら膝で前に進みました。左右の侍御も皆、涙を流しています。
王が問いました「郎中令はなぜ哭すのだ?」
龔遂が言いました「臣は社稷の危機に心を痛めているのです。清閒(清閑。時間)をいただいて愚見を述べ尽くさせてください。」
昌邑王は左右の者を去らせました。
龔遂が問いました「大王は膠西王がなぜ無道の罪で亡んだか知っていますか?」
膠西王は劉端(于王)といい、景帝の子です。武帝元封三年(前108年)に死に、後嗣がいないため国を廃されました。
昌邑王は龔遂の問いに「知らない(不知也)」と答えます。
龔遂が言いました「臣が聞いたところでは、膠西王には諛臣侯得(侯得は人名)がおり、王の行為は桀紂のようでしたが、侯得は(膠西王を)舜のようだと言いました。王はその諂諛に悦び、常に寝処を共にしました。侯得の言によってそれ(滅亡)を招いたのです。今、大王は群小を親近し、少しずつ邪悪が為す習(悪習)に漬かっています。これは存亡の機なので、慎重にしなければなりません。臣は郎の中から経に精通していて行いに義がある者を選び、王と起居を共にさせることを願います。坐したら『詩』『書』をそらんじ、立ったら礼容を習えば、(王にとって)益があるはずです。」
昌邑王がこれに同意したため、龔遂は郎中張安等十人を選んで王に仕えさせました。
しかし昌邑王は数日で張安等を追い出しました。
 
 
 
次回に続きます。

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