西漢時代172 昭帝(十六) 昌邑王即位 前74年(2)

今回は昭帝元平元年の続きです。
 
[(続き)] 昌邑王劉賀はかつて大きな白犬を見ました。首から下は人のようで、頭に方山冠を被り、尾はありません。
資治通鑑』胡三省注によると、「方山冠」は五采縠(五彩の絹織物)で作られた冠で、前は高さ七寸、後ろは高さ三寸、長さは八寸ありました。通常は楽舞の人が着用します。
漢書武五子伝』はこの犬を「高さ三尺の白犬で、頭がなく(無頭)、頸(首)以下は人に似ており、方山冠をかぶっていた」としています。
漢書五行志中之上』には「大白狗は方山冠をかぶり、尾がなかった」とあり、『資治通鑑』は『五行志』に従っています。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)はこう書いています。「『昌邑王伝(武五子伝)』は『頭がなかった(無頭)』と書いているが、『五行志』は『尾がなかった(無尾)』とし、尾がないことを『死後に後嗣を置けなかったことの象(兆)』と解説している。もし頸(首)以下が人のようで頭がなかったら、犬と見分ける方法がなく、そもそも冠をかぶることもできない。恐らく『昌邑王伝』の誤りである。」
 
本文に戻ります。
昌邑王が白犬について龔遂に問うと、龔遂はこう言いました「これは天戒です。傍にいる者は皆、狗が冠をかぶっているのと同じだと言っているのです。彼等を去らせれば存続できますが、去らせなかったら滅亡を招きます。」
 
後に人が叫ぶ声が聞こえました。「熊だ!」と言っています。
昌邑王が見ると大熊がいましたが、左右の者には見えません。
昌邑王がまた龔遂に問うと、龔遂はこう言いました「熊は山野の獣です。それなのに宮室に入って来て王だけに見えました。これは天が大王を戒めているのです。恐らく宮室がもうすぐ空になります。危亡の象というものです。」
昌邑王は天を仰いで嘆息し、「なぜしばしば不祥が訪れるのだ」と言いました。
龔遂が叩頭して言いました「臣は忠を隠すことができず、しばしば危亡の戒を進言してきましたが、大王は喜びませんでした。しかし国の存亡がどうして臣の言にあるでしょう(国の存亡は瑞祥にあるのではなく、王によって左右されます)。王は内(心底)から自分で揆度(考慮)するべきです。大王が『詩』三百五篇を読めば、人事が順調になってやっと王道が備わるということが分かるでしょう(人事浹,王道備)。王の行いは『詩』のどの一篇に符合するでしょうか(王の行動を『詩』の教えに符合させるべきです)。大王の位は諸侯王ですが、行いは庶人より汚れています。存続とは難しいものですが、滅亡は容易です。これを深く察するべきです。」
 
後に血で王の座席が汚れていることがありました、
昌邑王が龔遂に問うと、龔遂は大声を上げてこう言いました「宮が空になるのはもうすぐです!妖祥がしばしば至っています。血は陰憂の象です。恐れて慎重にし、自ら反省しなければなりません!」
しかし昌邑王は品行節操を改めようとしませんでした。
 
朝廷の徵書(朝廷に招く書)が昌邑国に至りました(朝廷が派遣した楽成等は長安の昌邑王邸に行きました。昌邑王邸が人を送って昌邑王国に書を届けたのか、楽成等が自ら長安を出て昌邑王国に来たのかは分かりません)
まだ夜半でしたが、昌邑王は火を灯して書を開きます(原文「夜漏未尽一刻,以火発書」。「夜漏」は夜の時間を告げる時計です。「未尽一刻」というのは「時計が夜の一刻を告げる前」という意味ですが、具体的な時間はわかりません。夏は昼が六十刻、夜が四十刻で、冬は昼が四十刻、夜が六十刻だったようです)
 
日中(正午)、昌邑王が出発して長安に向かいました。
晡時(夕食の時間。申時。午後三時から五時)には百三十五里移動して定陶に入ります。
侍従の者の馬が疲労のため次々に死んで道に連なりました。
 
王吉が奏書して昌邑王を戒めました「臣が聞くに、高宗(商王武丁)は諒闇(喪に服すこと)して三年間何も言いませんでした。今、大王は喪事によって召されたので、日夜、哭泣悲哀するだけで充分です。慎んで発することがないようにしてください(即位しても号令を出すべきではありません。原文「慎毋有所発」)。大将軍(霍光)の仁愛、勇智、忠信の徳は天下で知らない者がいません。孝武皇帝に仕えて二十余年になりますが、未だに過失もありません。先帝が群臣を棄てた時武帝崩御した時)、天下を(大将軍に)属させて幼孤を託しました。大将軍は幼君を褓の中に抱きかかえながら布政施教し、海内を晏然(安寧)にさせました。周公や伊尹でも越えることはできません。今、帝が崩じて後嗣がいないため、大将軍は宗廟を奉じることができる者を惟思(考慮)し、大王を攀援(支持)して擁立することにしました。その仁の厚さにどうして量があるでしょう(仁の厚さに際限がありません)。臣は大王が(大将軍に)仕えて敬い、政事は全て(大将軍の意見を)聴くことを願います。大王は垂拱して南面するだけで充分です。これらのことに留意して常に思い出してください。」
 
昌邑王が済陽に着くと長鳴雞を求めました。
資治通鑑』胡三省注によると、長鳴雞というのは鳴き声が長い鶏です。南詔の諸蛮から来た鶏で、背が低いのに体は大きく、一度鳴いたら半刻も続き、終日、鳴き声が絶えませんでした。蛮族はこれをとても貴重な物としており、一羽が銀一両に値しました。
 
また、道中で積竹杖を買いました。
資治通鑑』胡三省注によると、積竹杖は竹を合わせて作った杖です。
 
弘農を通った時、昌邑王は大奴善を使って衣車(帷幕で囲まれた車)に女子を載せました(民間の女子を奪って衣車に隠しました)
資治通鑑』胡三省注によると、大奴は奴僕の長です。善は名です。
 
湖県に至った時、朝廷の使者が昌邑国の相安楽(姓氏は不明です)を譴責しました。
安楽が龔遂に伝えたため、龔遂が昌邑王の部屋に入って確認しました。
しかし昌邑王は「そのようなこと(女子を奪って隠しているということ)はない(無有)」と言います。
龔遂が言いました「そのようなことがないのなら、一人の善(大奴善)を愛して(惜しんで)行義を損なう必要はありません。逮捕して吏に下し、大王を潔白にしてください(湔洒大王)。」
龔遂は大奴善を捕まえて衛士長に引き渡し、法を執行させました。
 
昌邑王が霸上まで来た時、大鴻臚が郊外で出迎えました。騶(馬夫。騎馬の侍従)が昌邑王を乗輿車(皇帝の車)に乗せます。
昌邑王は寿成(『資治通鑑』胡三省注によると、寿成は名で、昌邑国の太僕です)に車を御させ、郎中令龔遂が参乗(同乗)になりました。
広明、東都門の近くまで来ると、龔遂が言いました「礼では、奔喪(喪に駆けつけること)して国都を望み見たら哭すものです。ここが長安東郭門(東都門)です。」
昌邑王が言いました「わしは嗌(喉)が痛いから哭せない。」
資治通鑑』胡三省注によると、長安城東の北側第一門を宣平門といい、その外郭(外城)が東都門です。
広明は東都門外の亭です。
 
城門(恐らく内城の門)の前まで来てから龔遂がまた哭すように進言しました。
しかし昌邑王はこう言いました「城門と郭門(外城の門)は同じではないか(郭門で哀哭しなかったのだから、城門でも哀哭する必要はない)。」
未央宮東闕に近づくと、龔遂が言いました「昌邑の帳(弔哭用の帳)は闕外の馳道(大通り)の北にあります。帳に至る前に南北に道が通っており、馬の足で数歩も進まずに到着できます(恐らく「ここから南北の道へは馬の足で数歩で着く」という意味です。あるいは「南北の道から帳まで」の距離かもしれません)。大王は(南北の道で)車を降り、闕を向いて西に面し、伏して哭し、哀痛の情を尽くしてから哭を止めるべきです。」
昌邑王は「わかった(諾)」と言い、闕の下でやっと儀礼に則って哀哭しました。
 
六月丙寅(初一日)、昌邑王・劉賀が皇帝の璽綬を受け取って尊号(帝号)を継承しました、
上官皇后を尊重して皇太后にしました。まだ十五歳の皇太后です。
 
壬申(初七日)、孝昭皇帝を平陵に埋葬しました。
漢書』の注によると、平陵は長安の西北七十里の場所にありました。 
 

 
次回に続きます。