西漢時代173 昭帝(十七) 廃立の議 前74年(3)

今回も昭帝元平元年の続きです。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
昌邑王劉賀が即位しましたが、淫戯(放蕩なふるまい)に限度がありませんでした。
昌邑国の官属も皆、長安に招かれ、多くの者が抜擢されて朝廷の官を与えられました。昌邑国の相安楽は長楽衛尉になります。
龔遂が安楽に会った時、涙を流して言いました「王が立って天子になったが、日に日に驕溢(驕慢)になり、諫めても全く聴かない。今、哀痛が尽きていないのに(喪に服している時なのに)、毎日近臣と飲酒して楽しみ、虎豹を闘わせ、九旒(天子の旗)を立てた皮軒車(皮で覆われた車。天子の車)を召して東西に駆馳(疾駆)させ、為すことが道に背いている。古の制度は寛大だったので、大臣は隠退ができたが、今は去りたくても去れず、狂ったふりをしても人に知られることを恐れなければならず、身が死んだら世に戮されることになる(侮辱される)。これをどうすればいい。君は陛下の故相(元相)だ。諫争を極めるべきだ。」
 
劉賀が夢を見ました。青蠅が西階の東に糞をして五六石も溜まっており、その上に屋版瓦(屋根瓦)がかぶせられています。
劉賀がこれを龔遂に問うと、龔遂はこう言いました「陛下が読んだ『詩』にこうありませんか。『青蠅がぶんぶんと飛んで藩(垣根)に止まる。仁があって親しみやすい君子は讒言を信じない(営営青蠅,止于藩。愷悌君子,毋信讒言)。』陛下の左側には讒人が多数おり、青蠅の悪(糞)と同じです。先帝の大臣子孫を進めて左右(近臣)とし、親近するべきです。昌邑の故人旧人。知人)を惜しんで讒諛を信用したら必ず凶咎があります。禍を転じて福と為すために、全て放逐することを願います。まず臣が最初に放逐されましょう。」
劉賀は同意しませんでした。
 
太僕丞(『資治通鑑』胡三省注によると、太僕丞の秩は千石です。丞の定員は一人という説と二人という説があります)で河東の人張敞が上書して劉賀を諫めました「孝昭皇帝が早く崩じて後嗣がいなかったので、大臣達は憂懼し、賢聖を選んで宗廟を継承させ、東迎の日は属車(皇帝に従う車。実際は皇帝の車を指しますが、遠慮して「属車」と言っています)が進むのが遅いこと(陛下が来るのが遅くなること)だけを恐れていました。今、天子は盛年をもって即位したばかりなので、天下において目を拭って耳を傾け、化(教化)を観て風(噂)を聴かない者はいません(天下が陛下を注目して教化善政を望んでいます)。しかし国輔の大臣(国を補佐する重臣が褒賞される前に昌邑の小輦(輦を牽く小臣)が先に遷されました(昇格しました)。これは大きな過ちです。」
劉賀は諫言を聴きませんでした。
 
大将軍霍光が憂懣(憂鬱憂愁)し、普段から親しくしていた故吏(古い部下)の大司農田延年に個人的に意見を求めました。
田延年が言いました「将軍は国の柱石です。この人を詳しく視て相応しくないと判断したのなら、なぜ太后に建白(建議報告)してから改めて賢人を選んで立てないのですか?」
霍光が言いました「今はそのように欲しているが、古にそのような事があったか?」
田延年が言いました「伊尹が殷の相になった時、太甲を廃して宗廟を安定させ、後世はその忠を称えました。もし将軍もこのようにできたら、漢の伊尹となれます。」
霍光は田延年に給事中(禁中に仕える官)を兼任させ、秘かに車騎将軍張安世も交えて計を練りました。
 
劉賀が出遊した時、光禄大夫で魯国の人夏侯勝が乗輿(車)を遮って諫言しました「天が久しく曇っているのに雨が降らないのは、臣下の中に上を謀っている者がいるからです(臣下有謀上者)。陛下は外出してどこに行くつもりですか?」
劉賀は怒って夏侯勝が祅言(妖言)を為したと言い、縛って吏(官吏。獄吏)に下しました。
吏は霍光に報告します。
霍光は夏侯勝に刑を与えず、皇帝廃立の計画が漏れたのではないかと思って張安世を責めました。
しかし張安世は誰にも話していません。
そこで夏侯勝を召して問いました。
夏侯勝が言いました「『鴻範伝(洪範伝)』にこうあります『国君が極(規律)を失ったら、(天が)罰を下して常に曇りとなり、その時、下人で上を伐つ者がいる(皇之不極,厥罰常陰,時則有下人伐上者)。』察察(明白)とした言を避けたので、(陛下を伐つ者がいるとは言わず)『臣下に謀がある(臣下有謀)』と言ったのです。」
霍光と張安世は大いに驚き、この後ますます経術の士を重視するようになりました。
 
侍中傅嘉がしばしば劉賀を諫言したため、劉賀は傅嘉も縛って獄に入れました。
 
霍光と張安世が皇帝廃位の計画を定めました。田延年から丞相楊敞に伝えさせます。
計画を聞いた楊敞は驚愕して何と言えばいいか分からず、汗で背を濡らしながら、ただ「唯唯(はいはい)」と言うだけでした。
田延年が立ち上がって更衣(厠。または着替え)に行きました。
すると楊敞夫人が急いで東廂から楊敞にこう言いました「これは国の大事です。今、大将軍の議が既に定まり、九卿(大司農田延年)を送って君侯(あなた)に報せました。君侯が早く応じて大将軍と同心になろうとせず、躊躇して決断できなかったら、事を起こす前に誅されるでしょう。」
田延年が更衣から戻ると楊敞夫人も田延年の話に加わって許諾し、「大将軍の教令を奉じさせてください」と言いました。
 
六月癸巳(二十八日)、霍光が丞相、御史、将軍、列侯、中二千石、大夫、博士を未央宮に集めて会議を開きました。
霍光が言いました「昌邑王は昏乱を行っているので、恐らく社稷を危うくする。どうするべきだ?」
群臣は皆驚愕して色を失い、敢えて発言する者はなく、ただ「唯唯(はいはい)」と言うだけです。
田延年が群臣の前で席から離れて剣に手を置き、霍光にこう言いました「先帝武帝が将軍(霍光)に幼孤を属し(託し)、天下を将軍に寄せた(任せた)のは、将軍の忠賢によって劉氏を安定させることができるからです。それなのに今は群下が鼎沸(混乱。喧噪)して社稷が傾こうとしています。そもそも漢の伝諡(歴代の号)は常に『孝』をつけてきました。これは長く天下を有して宗廟に血食(祭祀)を得させるためです。もし漢家が祀(祭祀)を絶たせることになったら、将軍はたとえ死んだとしても、何の面目があって地下で先帝に会えるのでしょうか?今日、議が決しないようなら、踵を返すわけにはいきません。群臣の中で最後に応じた者は、臣がこの剣で斬ることをお許しください。」
霍光が謝って言いました「九卿(大司農田延年)が光(私)を責めるのは是(正しいこと)である。天下は匈匈(喧噪の様子)として不安になっている。光(私)が難(譴責。罰)を受けるべきだ。」
議者(議論に参加した群臣)は皆、叩頭して「万姓(万民)の命は将軍にかかっています。大将軍の令に従うだけです」と言いました。
 
霍光は群臣と共に長楽宮の上官太后に会いに行って報告しました。昌邑王には宗廟を継承することができないという現状を詳しく述べます。
太后は車駕に乗って未央宮承明殿に移りました。詔を発して各禁門に昌邑王の群臣を入れないように命じます。
この日、昌邑王劉賀は入宮して太后に朝見してから、輦に乗って温室に還ろうとしました。
資治通鑑』胡三省注によると、長楽宮と未央宮北に温室殿がありました。漢の皇帝は未央宮に住んでいたので、この温室は未央宮のものです。劉賀は長楽宮の上官太后に朝見してから未央宮温室殿に還ろうとしました。
 
中黄門(『資治通鑑』胡三省注によると、中黄門は少府黄門令に属します。秩は比百石です)の宦者(宦官)がそれぞれ門扇をつかんでおり、劉賀が未央宮に入るとすぐに門を閉じました。昌邑の群臣は中に入れなくなります。
劉賀が「何をするのだ?」と問うと、大将軍霍光が跪いて言いました「皇太后の詔があります。昌邑の群臣を入れることはできません。」
劉賀が言いました「ゆっくりやれ(静かにやれ。原文「徐之」)。なぜそのようにして人を驚かすのだ。」
霍光は部下に命じて昌邑の群臣を全て外に出させ、金馬門外に集めました。車騎将軍張安世が羽林の騎兵を率いて二百余人を捕縛し、廷尉の詔獄(皇帝が管理する獄)に送ります。
霍光は昭帝の侍中だった中臣(宦官)に劉賀を守らせ、左右の者にこう命じました「謹んで宿衛(警護)せよ。突然、物故(死亡)自裁(自殺)があったら、わしが天下を裏切り、主を殺した悪名を負うことになる。」
劉賀はまだ自分が廃されるとは知らないため、左右の者にこう言いました「私の旧群臣や従官がどのような罪を犯したのだ。大将軍はなぜ全て逮捕したのだ。」
 
やがて太后が詔を発して劉賀を招きました。
それを聞いた劉賀はやっと恐れを抱いて「私が何の罪を犯したのだ。なぜ私を召したのだ」と言いました。
太后は珠襦(玉で装飾した短衣)を被い、盛服(華麗な服飾)を着て武帳(本来は武器を置く帳。または武士の像が描かれた帳)の中に坐りました。侍御数百人が武器を持ち、戟を持った期門武士が階段を挟んで殿下に並んでいます。
資治通鑑』胡三省注によると、期門武士は光禄勳に属します。武帝が勇力の士と諸殿門で会う約束をしてから微行(おしのび)したため、期門武士と呼ばれるようになりました。「期」は「会う」「約束をする」という意味です。
 
 
 
次回に続きます。