西漢時代174 昭帝(十八) 皇帝廃位 前74年(4)

今回も昭帝元平元年の続きです。
 
[(続き)] 群臣が序列に従って上殿しました。
昌邑王・劉賀を召し、太后の前で伏して詔を聴かせます。
霍光と群臣が連名で昌邑王を弾劾する上奏をし、尚書令が読み上げました「丞相臣敞(楊敞)等が死を冒して皇太后陛下に上奏いたします。孝昭皇帝が早くに天下を棄てられたので崩御したので)、使者を派遣して昌邑王を召し、典喪(喪を主宰すること)させました。しかし、斬衰(喪服)を着ても悲哀の心がなく、礼義を廃し、道中においても素食(肉がない料理)を採らず、従官に女子を略奪させて衣車(布で覆われた車)に載せ、伝舍(駅舎)に入れて同宿しました。
始めて太后に)謁見して皇太子に立ってからも、しばしば個人的に鷄豚を買って食しました。
皇帝の信璽、行璽(どちらも皇帝の璽です。『資治通鑑』胡三省注によると、漢初には三璽があり、天子の璽は皇帝が自ら佩しました。信璽と行璽は符節台に置かれました)を大行(昭帝の棺)の前で受けとっても、帰って璽を開けてから封をしませんでした(『資治通鑑』胡三省注によると、璽は国器なので普段は封をしてしまってあります。封をせずに人目に晒したというのは璽を軽んじたことになります)
従官が代わる代わる符節を持って昌邑の従官、騶宰(馬夫や料理人)、官奴二百余人を招き入れ、常に彼等と禁闥の中に住んで敖戯(遊興)しました。
書を為してこう言いました『皇帝(劉賀)が侍中君卿(君卿は人名です)に問う(慰労する)。中御府令高昌に黄金千斤を持たせて派遣し、君卿が十妻を娶ることを下賜する(十人の妻を娶ることを許可する)。』
大行が前殿にあるのに、楽府の楽器を出して昌邑の楽人を招き入れ、鼓を打ったり歌吹(歌や吹奏)させて俳倡(楽舞)としました。泰壹(泰一)宗廟の楽人(泰一や宗廟の祭祀で音楽を奏でる楽人。『資治通鑑』胡三省注によると、八百二十九人いました。楽舞について解説がありますが、省略します)を招き入れて衆楽(祭祀で使う様々な楽舞。『文徳』『昭徳』『文始』『五行之舞』『嘉至』『永至』『登歌』『休成之楽』『房中祠楽』『安世楽』『昭容楽』『礼容楽』等)をことごとく演奏させました。
法駕(皇帝の車)を御して北宮や桂宮(『資治通鑑』胡三省注によると、北宮と桂宮は未央宮北にありました。桂宮武帝が造り、周囲は十余里ありました。紫房複道で未央宮に通じています。桂宮は未央宮漸台の西に位置します)を駆馳(疾走)させ、弄彘闘虎しました(豚で遊んだり虎を闘わせました)
太后が乗る小馬車を召し(『資治通鑑』胡三省注によると、漢の馬厩には「果下馬」という高さ三尺の小さな馬がおり、皇太后の輦を牽いていました。果樹の下でも騎乗できるほど小さいため、「果下馬」といいます)、官奴に騎乗させ、掖庭の中で遊びました。孝昭皇帝の宮人(蒙は名です)等と淫乱し、掖庭令(『資治通鑑』胡三省注によると、掖庭令は少府に属します。元は永巷令といいましたが、武帝時代に改名されました)に『この事を漏らした者は腰斬に処す(敢泄言要斬)』と命じました。」
 
上奏文はまだ途中ですが、太后が「止めなさい(止)。人の臣子でありながらこれほど悖乱(非道。昏乱)だったのですか」と言いました。
昌邑王は席から離れてひれ伏します。
尚書令が続けて読み上げました「諸侯王、列侯、二千石の綬および墨綬、黄綬(千石以下の官員の綬。『資治通鑑』胡三省注によると、諸侯王の赤綬は四采(四色の彩)がありました。青、黄、縹(青白)、紺です。列侯の紫綬は二采がありました。紫と白です。二千石の青綬は三采がありました。青、白、紅です。千石、六百石の墨綬には三采がありました。青、赤、紺です。四百石、三百石、二百石は黄綬を佩しました)を取り、昌邑の郎官の者や免奴(奴僕を免じられた者)に佩させました。御府の金銭、刀剣、玉器、采繒(絹織物)を発して共に遊戯(遊興)した者の賞賜としました。夜は従官や官奴と飲み、酒に溺れました。
夜の間に温室で九賓の礼を設け、姉の夫に当たる昌邑関内侯だけを接見しました。
祖宗廟の祠(祭祀)をまだ行っていないのに、璽書を作り、使者に符節を持たせて派遣し、三太牢(一太牢は牛羊各一頭)を使って昌邑哀王(劉髆。劉賀の父)の園廟を祀り、『嗣子皇帝(昌邑哀王の後嗣。皇帝劉賀)』と自称しました(宗廟の祭祀をする前に個人的に父の祭祀を行ったことが問題とされました。また、劉賀は皇帝として劉氏の大宗(本家本流)に入ったので、昌邑哀王の後嗣と称すのは礼に背くことになります)
璽を受け取ってからわずか二十七日の間に使者を旁午(分散。交錯)させ、節詔を持って諸官署に徵発(人力や物資の徴集)させること千百二十七事に及びました。
荒淫迷惑(昏乱)で帝王の礼誼(礼義)を失い、漢の制度を乱しています。臣敞等がしばしば諫言を進めても変わることなく、日々ますますひどくなっています。恐らく社稷を危うくし、天下を不安にさせることになるので、臣敞等は謹んで博士と議しました。その結果、皆こう言いました『今、陛下は孝昭皇帝の後を継いだのに、淫辟不軌(放蕩淫乱で不正)を行っています。「五刑の中で不孝より大きいものはない(五辟之属,莫大不孝)」といいます(『資治通鑑』胡三省注によると『孝経』の一文です)。周襄王は母につかえることができなかったため、『春秋』に「天王は(京師を)出て鄭に住んだ」と書かれました。不孝だったから(京師を)出ることになり、天下に絶たれた(棄てられた)のです。宗廟は君(国君)より重いものです。陛下は天序(天の秩序。帝王の家系)を受け継ぎ、祖宗廟を奉じ、万姓(万民)を子とすることができないので、廃すべきです。』臣は有司(官吏)が一太牢を準備して高廟に告祠(報告祭祀)することを請います。」
 
太后が詔を発して「可」と言いました。
霍光が昌邑王を立たせて詔を拝受させます。
昌邑王が言いました「『天子には争臣が七人おり、道を失っても天下を失うことはない(天子有争臣七人,雖亡道不失天下)』と聞いている(『資治通鑑』胡三省注によると『孝経』の言葉です)。」
霍光が言いました「皇太后の詔によって廃されたのに、なぜ天子と称すのですか。」
霍光は昌邑王の手をつかみ、璽組(璽綬)を解いて太后に返上しました。
 
霍光が昌邑王を抱えて殿を下り、金馬門を出ました。群臣が後に従って送り出します。
昌邑王は西面して拝し、「(私は)愚戇(愚直。愚昧)なため漢の事を任せられなかった」と言いました。
立ち上がって乗輿副車(皇帝の副車)に乗ります。
霍光が昌邑邸まで送り、謝って言いました「王の行いは自ら天に絶たれました。臣は王に背くことがあっても、社稷に背くことはできません。王は自愛してください。臣は今後長く左右にいるわけにはいきません。」
霍光は涙を流して去りました。
こうして劉賀は即位して二十七日で帝位を廃されました。
 
群臣が上奏しました「古において廃放された人は遠方に遮断されて政事に参与できなくなりました。王賀を漢中の房陵県に遷すことを請います。」
しかし太后は詔を発して劉賀を昌邑に還らせ、湯沐邑二千戸を下賜しました。湯沐邑で得られる賦税は朝廷に納めず、全て所有者のものになります。
昌邑王家の財物も全て劉賀に返しました。
また、昌邑哀王の娘四人にもそれぞれ湯休邑千戸を下賜しました。
昌邑国は廃されて山陽郡になりました(昌邑国は元々山陽郡だったので、今回、王国が廃されて山陽郡に戻ったことになります)
 
昌邑の群臣は、国にいた時に昌邑王の罪過を報告せず、漢朝に実情を知らせなかった罪、および昌邑王を補佐して正道に導くことができず、大悪に陥れた罪を問われ、全て下獄され、二百余人が誅殺されました。
中尉王吉と郎中令龔遂だけは忠直によってしばしば諫言したため、死罪を免れました。但し、髠(髪を剃る刑)して城旦(城壁の修築や守衛。労役)の刑に処せられます。
漢書循吏伝(巻八十九)』によると、龔遂は次に即位する宣帝の時代に渤海太守になり、最後は水衡都尉に任じられました。
また、『漢書王貢両龔鮑伝(巻七十二)』によると、王吉も後に益州刺史に任命され、一度は病のため職を去りますが、再び召されて博士諫大夫になりました。
 
昌邑王の師王式も獄に繋がれて死刑になるはずでした。
治事使者(治獄使者。事件を裁く官員)が王式を譴責して言いました「師はどうして諫書がないのだ(なぜ上書して諫めなかったのだ)?」
王式が言いました「臣は『詩』三百五篇を朝も夕も王に授け、忠臣孝子の篇に至ったら、王のために反復して詠まないことはありませんでした(いつも王のために反復して詠んでいました)。危亡失道の君に至ったら、涙を流して王のために深く述べないことはありませんでした(いつも涙を流して王のために深く語って聞かせました)。臣は三百五篇によって諫めたのです。だから諫書がないのです。」
使者がこれを報告したため、王式も死罪を免じられました。
漢書儒林伝(巻八十八)』によると、王式は後に朝廷に招かれて博士になりました。
 
当時は群臣が東宮に上奏して太后が政事を裁決していたため、霍光は太后も経術を理解するべきだと考えました。そこで、太后に報告してから夏侯勝に命じて『尚書』を太后に教授させます。
夏侯勝は長信少府に抜擢され、関内侯の爵位を下賜されました。
資治通鑑』胡三省注によると、長信少府は元々長信詹事とよばれており、皇太后宮を管理していました。景帝時代に長信少府に改名され、更に平帝時代に長楽少府に改名されます。長信殿は長楽宮内にあり、太后が住んでいました。
 
 
 
次回に続きます。