西漢時代176 昭帝(二十) 宣帝即位 前74年(6)

今回で昭帝元平元年が終わります。
 
[(続き)] 昭帝が死んで昌邑王が廃されてから、霍光が張安世や諸大臣と誰を擁立するか討議しましたが、なかなか決まりませんでした。
そこで丙吉が書を送って霍光にこう伝えました「将軍は孝武皇帝に仕えて(幼児)の属(託)を受け、天下の寄(頼り)を任されました。孝昭皇帝が早く崩じて後嗣がいないため、海内が憂懼して嗣主(継承者)のことを早く聞きたいと願っています。そこで発喪の日に大誼大義によって後嗣を立てましたが、立てた者が相応しくなかったので、また大誼によって廃しました。天下で服していない者はいません。今、社稷、宗廟、群生の命は将軍の一挙にかかっています。臣が伏して衆庶(民衆)の意見を聞いたところ、彼等の言から察するに、諸侯や宗室で位に列している者の中では、民間で(名が)知られている者はいません。しかし、遺詔によって養われている武帝の曾孫で、名は病已という掖庭・外家の者(掖庭と母の実家に養われた者)がおります。吉(私)がかつて郡邸(獄)に住むように命じられた時はその幼少な姿を見ましたが、今は十八九になってるはずです。経術に通じて美材(優れた能力)があり、行安(行動が落ち着いていること)かつ節和(性格が和やか)なので、将軍が大義を詳しくし大義を慎重に考察して明らかにし)、蓍亀(占卜)を参考にして相応しいかどうかを看て、褒顕(称賛して名を知らせること)してまず入侍させ太后に仕えさせ)、天下に昭然と(明らかに)知らせてから大策を決定すれば、天下の幸甚となるでしょう。」
杜延年も曾孫劉病已の美徳を知っていたため、霍光と張安世に擁立を勧めました。
 
秋七月、霍光が庭中に坐り、丞相以下が劉病已の擁立を議定しました。
再び霍光や丞相楊敞等が太后に上奏します「礼においては、人道とは親族と親しむことによって祖先を尊び(親親故尊祖)、祖先を尊ぶことによって宗(大宗。または宗業)を敬うものです(尊祖故敬宗)。大宗に後嗣がいない場合は、支子孫(傍系の子孫)から賢才を選んで後嗣にするべきです。孝武皇帝の曾孫病已は詔によって掖庭で養視されており、今に至って年十八になります。師から『詩』『論語』『孝経』の教えを受け、節操行動は節倹で、慈仁によって人を愛しているので、孝昭皇帝の後を継いで祖宗廟を奉じ、万姓(万民)を子とすることができます。臣は死を冒して報告します。」
太后は詔を発して「可」と言いました。
 
霍光が宗正劉徳を尚冠里の曾孫家に派遣しました。劉病已を洗沐(沐浴)させて御衣を下賜します。
太僕が軨猟車(小車。『資治通鑑』胡三省注によると、天子の車駕が準備できていないため軽車を使いました)で劉病已を迎え、宗正府に送って斎戒させました。
 
庚申(二十五日)、劉病已が未央宮に入って皇太后に謁見しました。
まず陽武侯に封じられます。封侯したのは庶民を天子に立てるのを避けるためです。
その後、群臣が璽綬を献上して正式に皇帝の位に即きました。これを宣帝といいます。
資治通鑑』胡三省注は「癸巳(六月二十八日)に昌邑王を廃して庚申(七月二十五日)に宣帝が立つまで漢朝は二十七日間も主君がいなかったが、天下が動揺しなかったのは霍光がいたからである。誠に容易ではない」と評価しています。
 
宣帝が高廟を拝謁しました。
資治通鑑』はここで「皇太后(上官氏)を尊んで太皇太后にした」と書いていますが、『漢書・宣帝紀』には記述がありません。『漢書外戚伝上(巻九十七上)』に「宣帝が即位して(上官氏を)太皇太后にした」と書かれています。
漢書』の本紀(『宣帝紀』『元帝紀』)では宣帝が死んで元帝が即位した時に上官氏が太皇太后になります。
恐らく『漢書外戚伝上』と『資治通鑑』は誤りで、上官氏が太皇太后になるのは元帝が即位してからの事です宣帝黄龍元年・49年参照)
 
侍御史厳延年が霍光を弾劾して上奏しました「大将軍光は勝手に主を廃立しました。人臣の礼がなく、不道(無道)です。」
上奏は却下されましたが、朝廷は粛然として厳延年を畏敬しました。
資治通鑑』胡三省注によると、侍御史は御史大夫に属し、定員は十五人です。公卿の奏事を受け入れたり官員を弾劾しました。
厳氏は戦国時代に濮陽の厳仲子がいました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
八月己巳(初五日)、丞相安平侯楊敞(敬侯)が死にました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
九月、天下に大赦しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
戊寅(中華書局『白話資治通鑑』は「戊寅」を恐らく誤りとしています)、蔡義を丞相にしました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
以前、許広漢の娘が皇曾孫(劉病已。宣帝)に嫁いで一年で劉奭という子を産みました。
数カ月後に皇曾孫は帝に立ち、許氏を倢伃(妃嬪の階級)にしました。
 
当時、霍光の小女(末娘)が皇太后太皇太后。上官氏。霍光の孫娘)と親しかったため、公卿が宣帝の皇后について議論した時、皆、心中で霍光の娘が立てられると思っていましたが、口には出しませんでした。
 
ある日、宣帝が詔を発して微時(貧しい頃)に使っていた古い剣を求めさせました(身分が変わっても古い物を棄てないという意味です)
大臣は宣帝の意志を知り、許倢伃を皇后に立てるように上奏しました。
 
十一月壬子(十九日)、許氏が皇后に立てられました。
諸侯王以下、吏民、鰥寡孤独(配偶者を失った男女。孤児。身寄りがない老人)に至るまで金銭を下賜しました。立場序列によって額には差があります。
 
霍光は皇后の父許広漢が刑人(受刑者。宦者)だったため国の主にするには相応しくないと考え、一年余してやっと昌成君(侯ではありません)に封じました。
 
[十一] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
太皇太后が長楽宮に還りました。
長楽宮に始めて屯衛(常駐の守衛)が置かれました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の太后は通常、長楽宮に住んでいましたが、太皇太后上官氏は昌邑王が帝位を廃されてから未央宮に住んでいました。今回、宣帝が即位したため、長楽宮に還りました。
 
 
 
次回に続きます。