西漢時代177 宣帝(一) 功臣封侯 前73年(1)
今回から西漢孝宣皇帝の時代です。
中宗孝宣皇帝
元の名は劉病已といいましたが、元康二年(前64年)に劉詢に改名します。
出生に関しては昭帝末年に述べたので、再述は避けます。
西漢宣帝本始元年
戊申 前73年
春正月、郡国の吏民で訾(財産)百万以上の者を募って平陵(昭帝陵)に遷しました。
使者に符節を持たせて郡国に派遣し、二千石(郡守・国相)が謹んで民を牧養(養うこと)して徳化を普及させるように詔を伝えました。
宣帝が詔を発し、策を定めて宗廟を安定させた功績(宣帝即位に協力した功績)について有司(官員)に議論させました。
大将軍・霍光が一万七千戸を加封され、元の食戸と併せて二万戸になりました。
車騎将軍・光禄勳・富平侯・張安世以下、加封された者は十人(霍光と張安世以外で十人です)、封侯された者は五人、関内侯の爵を得た者は八人いました。
『漢書・宣帝紀』と注釈を元に、この時の宣帝の詔を紹介します「故丞相・安平侯・敞(楊敞)等は位に居て職を守り、大将軍・光、車騎将軍・安世と建議して策を定め、それによって宗廟を安んじたが、(楊敞は)功賞を加えるまでに薨じてしまった(没してしまった)。よって敞の嗣子・忠(楊忠)および丞相・陽平侯・義(蔡義)、度遼将軍・平陵侯・明友(范明友)、前将軍・龍雒侯・増(韓増)、太僕・建平侯・延年(杜延年)、太常・蒲侯・昌(蘇昌)、諫大夫・宜春侯・譚(王譚)、当塗侯・平(『漢書・景武昭宣元成功臣表』『資治通鑑』では「魏聖」です。『宣帝紀』の注は「本紀は当塗侯・平としているが表と乖離しており、どちらが正しいか分からない。あるいは二つの名があったのだろうか」と書いています)、杜侯屠・耆堂(『宣帝紀』の注によると、姓は復陸です。祖父の復陸支が匈奴から漢に降って封侯されました)、長信少府・関内侯・勝(夏侯勝)を益封(加封)し、邑戸の数は個別に決定する。御史大夫・広明(田広明)を昌水侯に、後将軍・充国(趙充国)を営平侯に、大司農・延年(田延年)を陽城侯に、少府・楽成(史楽成)を爰氏侯に、光禄大夫・遷(王遷)を平丘侯に封じる。右扶風・徳(周徳)、典属国・武(蘇武)、廷尉・光(李光)、宗正・徳(劉徳。楚元王の曾孫。劉辟彊の子)、大鴻臚・賢(韋賢)、詹事・畸(宋畸、または宋踦。畸と踦は同音です)、光禄大夫・吉(丙吉)、京輔都尉・広漢(趙広漢)には爵を下賜して皆、関内侯とし、徳(劉徳)と武(蘇武)には食邑を与える(関内侯には本来食邑がありませんが、二人は特例として食邑が与えられました)。」
霍光は以前、二千三百五十戸の博陸侯に封じられ、今回一万七千二百戸が加えられました。二万戸というのはおおよその数です。諡号は宣成侯です。
張安世は以前、三千四十戸の富平侯に封じられ、今回一万六百戸が加えられました。諡号は敬侯です。
蔡義は以前、陽平侯に封じられ、今回加封されました。併せて七百戸になります。諡号は節侯です。
范明友は以前、平陵侯に封じられ、今回加封されました。併せて二千九百二十戸になります。後に罪を犯して誅殺されるため諡号はありません。
韓増は龍雒侯を継承し(昭帝元鳳元年・前80年参照)、今回千戸が加封されました。
杜延年は以前、二千戸の建平侯に封じられ、今回二千三百六十戸が加えられました。諡号は敬侯です。
蘇昌は以前、千二十六戸の蒲侯に封じられ、今回加封されました。後に罪を犯して廃されるため諡号はありません。
夏侯勝は以前、関内侯の爵を与えられ、今回、千戸を加封されました。
趙充国を千百七十九戸の営平侯に封じました。諡号は壮侯です。
以上五人が封侯された者です。
大将軍・霍光が稽首して政権を返還しようとしましたが、宣帝は謙讓して受け入れず、霍光に政事を委任しました。
諸事はまず霍光に関白(報告)し、その後、皇帝に上奏されます。
霍光の子・霍禹と兄(霍去病)の孫・霍雲はどちらも中郎将になり、霍雲の弟・霍山は奉車都尉・侍中になって胡・越の兵を領しました(統率しました)。
霍光の二人の娘の壻(夫)は東・西宮衛尉を勤め、兄弟や諸壻(諸婿。娘の夫)、外孫は全て朝請を奉じ(「奉朝請」。春と秋の朝見に参加する資格を持ちました)、諸曹、大夫、騎都尉、給事中になりました。
霍氏は親族一体となって朝廷の各所で権力を握りました。
昌邑王・劉賀が帝位を廃されてから霍光の権勢がますます重くなったため、宣帝は朝見のたびに身を正し、時にはへりくだった態度が礼から外れることもありました。
次回に続きます。