西漢時代177 宣帝(二) 戾太子 前73年(2)

今回は西漢宣帝本始元年の続きです。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月庚午(初十日)地震がありました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
宣帝が詔を発し、内郡国に文学高第(成績が優秀な者)を各一人推挙させました。
漢書』の注によると、中国は「内郡」、辺縁の夷狄は「外郡」と呼ばれました。武帝時代、内郡には方正を推挙させ、北辺二十二郡には勇猛の士を推挙させました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、鳳皇が膠東と千乗に集まりました(または「止まりました」。「集」は「鳥が止まる」という意味もあります)
天下に大赦し、田租賦を免じました。
 
二千石の官吏や諸侯の相から下は中都官(京師の諸官)、宦吏(宦官)、六百石の官吏に至るまで爵を下賜しました。下賜した爵位は左更(第十二爵)から五大夫(第九爵)で、下賜された者の地位序列によって差があります。
また、天下の人()にそれぞれ爵一級を下賜し、孝者には二級を与えました。
女子には百戸ごとに牛酒を与えます。
 
[] 『漢書帝紀漢書武五子伝(巻六十三)』と『資治通鑑』からです。
六月、宣帝が詔を発しました「故皇太子(劉據)は湖におり(劉據は湖県で自殺してその地に埋葬されています)、まだ諡を号しておらず、歳時の祠(四季の祭祀)も行っていない。よって諡を議して園邑を設けることにする。」
有司(官員)が上奏しました「礼においては、誰かの後を継承したらその人の子になるものです(為人後者,為之子也)。だから実の父母(の地位)を降して祭祀を受けさせないのです。これは尊祖の義(祖先を尊重する大義です。陛下は孝昭帝の後嗣となり、祖宗の祀(祭祀)を継承しました。礼を制定する際、限度を越えてはなりません。謹んで孝昭帝が為した事に見倣い行動するべきです(実の父母を祀るのは相応しくありません)
故皇太子は湖に位(冢位。墓)が建てられ、史良娣冢(墓)は博望苑北にあり、親(父)史皇孫の位は広明郭北にあります。謚法には『謚とは行の迹である(生前の行いを反映する)』とあります。愚見によるなら、親(父)の謚は悼とし、母は悼后と呼び、諸侯王園と同等にして奉邑三百家を置きます。故皇太子の謚は戾とし、奉邑二百家を置きます。史良娣は戾夫人とし、守冢三十家を置きます。園には長丞を置き、周衛奉守(周辺の守衛や祭祀)は法に則って行います。」
こうして諡号が決められました。
また、湖県の閿郷・邪里聚を戾園、長安の白亭東を戾后園、広明の成郷を悼園とし、それぞれ改葬しました。
 
皇太子劉據は「戾」が諡号になったため、戾太子と呼ばれます。
資治通鑑』胡三省注が「諡法」から「戾」の意味を書いています。「以前の過ちを悔いないことを戾という(不悔前過曰戾)」または「思念しない(懐かしがらない)ことを戾という(不思念曰戾)」です。
漢書帝紀』の韋昭注は「違戾(背反。謀反)によって勝手に兵を発したので諡号を戾という」としています。
しかし臣瓉はこう解説しています「太子が江充を誅して讒賊を除いたが、その事(功績)が明らかにならなかった。後になって(太子が死んでから)武帝が悟って江充の家を誅滅したため(太子の生前は罪人とされていたため)、宣帝は悪謚(悪い意味を持つ諡号をつけざるを得なかった。董仲舒は『功(結果)があってもその意(意義)がないことを戾といい、功(恐らくここでは「悪い結果」の意味です)がなくてもその意(意志)があることを罪という(有其功無其意謂之戾,無其功有其意謂之罪)』と言っている。」
顔師古は「瓉の説が正しい」と判断しています。
 
漢書外戚伝上(巻九十七上)』によると、戾太子の母衛皇后も改葬され、「思」という諡号が贈られました。思后といいます。園邑三百家を置いて長丞が周衛奉守することになりました。顔師古注は埋葬された場所を杜門外大道東としています。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
秋七月、燕剌王(劉旦。武帝の子)の太子劉建を広陽王に立てました。
劉建は燕王が謀反に失敗して自殺してから庶人に落とされていました(昭帝元鳳元年・前80年参照)
資治通鑑』胡三省注によると、広陽国は幽州に属します。劉旦が自殺してから燕国は廃されてから広陽郡になりましたが、今回、王国に戻り、郡名がそのまま国名になりました。
 
広陵劉胥武帝の子)の少子劉弘を高密王に立てました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、上官桀と霍光が政権を争いました。
霍光は上官桀を誅殺してから、武帝の法度を遵守するようになり、刑罰によって群下を厳しく管理しました。
そのため俗吏は皆、厳酷な態度を尊んでそれを有能なこととしました。
しかし河南太守丞で淮陽の人黄霸だけは寬和によって名が知られていました。
宣帝は民間にいた時、百姓が厳しい官吏を苦にしていることを知ったため、黄霸が公平な法を行っていると聞き、朝廷に召して廷尉正(『資治通鑑』胡三省注によると秩千石です)にしました。
この後、多数の疑獄が解決され、庭中は黄覇の公正公平を称えました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代179 宣帝(三) 田延年 前72年