西漢時代179 宣帝(三) 田延年 前72年
今回は西漢宣帝本始二年です。
西漢宣帝本始二年
己酉 前72年
春、宣帝が水衡銭を使って平陵(昭帝陵)を修築し、民を遷して第宅(邸宅)を築きました。
[二] 大司農・陽城侯・田延年が自殺しました。
これ以前に茂陵の富人・焦氏と賈氏が数千万銭を使って秘かに炭・葦等、埋葬に使う物を蓄えました。
昭帝が大行(崩御)した時、方上(陵墓)の建設が突然必要になりましたが、経費を準備していませんでした。そこで田延年が上奏しました「商賈(商人)の中にはあらかじめ方上(墳墓)の不祥な器物(埋葬に使う物)を集めていた者がいます。彼等は急ぎで必要になることを望み、それらを使って利を求めようとしていました。これは民臣が為すべきことではありません。没収して県官(朝廷)に入れることを請います。」
上奏文は採用されました。
財を失った富人は皆、怨みを抱き、金を払って田延年の罪を探し求めるようになりました。
昭帝の陵墓建設のため、大司農・田延年が民から牛車三万乗を借りて便橋の下から方上(墳墓)まで沙を運びました。
車の費用は一乗当たり千銭でしたが、田延年は帳簿上で一乗当たり二千銭と偽りました。三万乗なので六千万銭になります。田延年はその内の半額(上増せした三千万銭)を着服しました。
焦・賈の両家はこの事を訴えます。
宣帝は田延年を丞相府に下して調査させました。
霍光が田延年を召して問いました。霍光は田延年を助けるために道を開こうとします。
しかし田延年は否定してこう言いました「元々将軍の門から出てこの爵位を蒙りました(『資治通鑑』胡三省注によると、田延年はかつて霍光の幕府で働いており、大将軍長史も勤めました)。そのような事はありません。」
霍光が言いました「そのような事がないのなら、窮竟(徹底的に追及すること)するべきだ。」
御史大夫・田広明が太僕・杜延年に言いました「『春秋』の義によるなら、功(功績)は過(過失)を覆うものです。昌邑王を廃した時、田子賓(田延年の字)の言がなかったら大事が成せませんでした。今回の事は県官が三千万を出して自らこれを乞うたというのはどうでしょうか(「朝廷が三千万を出して田延年に収めさせた(田延年が受け取るように朝廷が乞うた)ことにできないでしょうか。」「田延年が着服した三千万銭は朝廷が与えたことにできないでしょうか。」または「田延年が自ら乞うたので朝廷が三千万銭を与えたことにできないでしょうか。」原文「今県官出三千万自乞之何哉」)。愚言を大将軍に伝えていただきたいです。」
人名が少しややこしいです。不正を働いたのは田延年で、それを助けようとしているのは田広明と杜延年です。
杜延年が田広明の言を霍光に伝えると、霍光は「その通りだ(誠然)。彼は実の勇士である。大議を発した時、朝廷を震動させた」と言い、手を挙げて自分の胸を撫でながらこう続けました「今でもわしを病悸(動悸)させている。田大夫(田広明)から大司農(田延年)を諭してもらえればありがたい。通常の道理に則るなら獄に就いて公議されるべきだ。」
『漢書』の注によると、霍光は田延年を助けようとしたのに拒否されたため怨みを抱いています。
田大夫は人を送って霍光の言葉を田延年に伝えました。
田延年はこう言いました「幸い県官(朝廷。皇帝)がわしを寛恕したとしても、何の面目があって牢獄に入り、衆人に指さして嘲笑させ、卒徒にわしの背へ唾棄させることができるか。」
田延年はすぐに閤(小門)を閉じて一人で斎舍に住みました。片方の肩を出し、刀を持って東西に歩きまわります。
数日後、使者が田延年を召して廷尉に送ろうとしました。
夏五月、宣帝が詔を発しました「朕は眇身(小さな身)によって祖宗を奉承(継承)し、朝から夜まで(夙夜)ただ孝武皇帝の業績を念じている。孝武皇帝は身をもって仁義を行い(躬履仁義)、明将を選んで不服を討ち、匈奴を遠遁させ、氐・羌・昆明・南越を平定し、百蛮が慕って(百蛮郷風)貢物を献上するために塞を訪ね(款塞来享)、太学を建て、郊祀を修め、正朔を定め、音律を協調させ、泰山を封じ、宣房(黄河の堤防)を塞ぎ、符瑞が応じて宝鼎が現れ、白麟を得た。その功徳は茂盛であり、述べ尽くすことができない。しかし廟楽が相応しくない。よってこれを議して上奏せよ。」
こうして群臣が朝廷で大議(大きな会議)することになりました。
群臣は皆、「詔書の通りにするべきだ(武帝のために廟楽を定めるべきだ)」と言いましたが、長信少府・夏侯勝だけはこう言いました「武帝は四夷を駆逐して土境を拡大した功がありますが、士衆の多くを殺し、民の財力を尽きさせ、奢泰(奢侈)に度がなく、天下が虚耗し、百姓が流離し、物故(死亡)した者は半数に上り、蝗蟲が大いに起こり、赤地(五穀が生えない地)が数千里に及び、あるいは人民が互いに食し(飢餓に苦しみ)、畜積(以前蓄積された財)は今に至っても回復していません。民に対して徳沢がないので、廟楽を立てるべきではありません。」
公卿がそろって夏侯勝を批難して「これは詔書だ」と言いました。
夏侯勝が言いました「詔書でも用いる(従う)べきではありません。人臣の誼(義)とは、直言正論するべきであり、とりあえず阿意順指(意におもねって指示に従うこと)するべきではありません。議(意見)は既に口から出ました。たとえ死んでも後悔しません。」
丞相長史・黄霸も夏侯勝におもねって弾劾しなかったとして夏侯勝と共に獄に下されました。
民に爵一級を下賜し、女子には百戸ごとに牛酒を与えました。
夏侯勝と黄霸は久しく獄に繋がれました。
黄霸が夏侯勝に『尚書』の教えを請いました。しかし夏侯勝は、もうすぐ死刑になるのだから教授しても意味がないと考えて辞退しました。
夏侯勝はこの言葉を賢人のものと認めて『尚書』を教授しました。
二人は獄に繋がれて冬を二回過ごしましたが、講論を怠りませんでした。
翁帰靡は即位して肥王と号し、改めて楚主(劉解憂)を娶りました。三男と二女が生まれ、長男は元貴靡、次男は万年、三男は大楽と名づけられます。
漢は士馬を養って匈奴討伐について討議しました。
しかしちょうど昭帝が死んでしまったため、出征は中止されました。
烏孫公主と昆彌(烏孫王)はどちらも漢の使者(常恵)を通して上書し(『資治通鑑』は「使者を送って上書した(遣使上書)」と書いていますが、『漢書・宣帝紀』では「国の使者を通して上書した(因国使者上書)」となっています。「国の使者」は「漢の使者」です。常恵を通して上書したと思われるので『宣帝紀』が正しいはずです)、漢朝廷にこう伝えました「匈奴がまた立て続けに大兵を発して烏孫を侵撃しています。(匈奴は)使者を送って烏孫にこう言いました『速く公主を連れて来い。』(匈奴は)漢との関係を隔絶させようとしているのです。昆彌は国の精兵五万騎を発し、尽力して匈奴を撃つことを願います。天子が哀憐して兵を出し、公主と昆彌を救うことを望むだけです。」
秋、漢が関東の軽車鋭卒を大動員して選抜し、郡国から三百石の官吏で強健かつ騎射に習熟した者を選んで全て従軍させました。
度遼将軍・范明友に三万余騎を率いて張掖から出撃させました。
前将軍・韓増に三万余騎を率いて雲中から出撃させました。
後将軍・趙充国を蒲類将軍にし、三万余騎を率いて酒泉から出撃させました。
雲中太守・田順(かつての丞相・田千秋の子です)を虎牙将軍にし、三万余騎を率いて五原から出撃させました。
五将軍は塞を出てそれぞれ二千余里進軍することを約束します。
次回に続きます。