西漢時代180 宣帝(四) 許皇后暗殺 前71年(1)

今回は西漢宣帝本始三年です。二回に分けます。
 
西漢宣帝本始三年
庚戌 前71
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月癸亥(十三日)、恭哀許皇后が死にました。
 
漢代の皇后は通常、諡号がありませんでした。
高帝の皇后は高祖呂皇后、恵帝は孝恵張皇后、文帝は孝文竇皇后、景帝は孝景薄皇后、孝景王皇后、武帝は孝武陳皇后、昭帝は孝昭上官皇后(『漢書外戚伝上』参照)です。
孝武衛皇后は宣帝によって「思」という諡号が贈られましたが(宣帝本始元年・前73年)、これは不遇な死を迎えたためで、特殊な例です。
今回、許皇后に「恭哀」という諡号がつけられたのも、殺害されたことを哀れんだからです(『資治通鑑』胡三省注)
 
以下、『資治通鑑』からです。
霍光夫人(姓氏は不明です)は小女(末娘)霍成君を尊貴な地位(皇后の地位)に就けさせたいと思っていましたが、道がありませんでした。
ちょうど許皇后が妊娠してから病を患いました。
当時、女医の淳于衍が霍氏(顕)に愛されており、入宮して皇后の病を診ることもありました。
淳于衍の夫(名。姓氏は不明です)は掖庭戸衛を勤めています。
資治通鑑』胡三省注によると、掖庭戸衛は掖庭の門戸を守る官で、戸郎の管轄下にあります。
 
夫が淳于衍に言いました「霍夫人に会いに行って挨拶をし(原文「過辞霍夫人行」。『漢書外戚伝上』の注は、「入宮する前に別れを告げに行く」と解釈しています。皇后の出産が近いため長期宮中で生活することになったのかもしれません)(その機会に)私のために安池監(安池は池の名です。池を管理する官です)の職を求めてくれ。」
淳于衍は夫に言われた通り、霍夫人に話しました。
すると霍夫人は異心を生じ、左右の者を退けてから、淳于衍を字で呼んでこう言いました「少夫(淳于衍の字。字で呼ぶのは親しみを表します)が幸いにもその事を私に報せて(話して)くれました。私も少夫に報せたい(話したい)ことがあります。いいですか?」
淳于衍が言いました「夫人の話すことにどうして不可ということがあるでしょう。」
霍夫人が言いました「将軍はかねてから小女成君を愛しており、奇貴(特別尊貴)にすることを欲しています。この事を少夫に託したいと思います。」
淳于衍が問いました「どういうことでしょうか(何謂邪)?」
霍夫人が言いました「婦人にとって免乳(娩乳。出産の意味です)は大故(大事)であり、十死に一生があるだけです。今、皇后は免身(娩身。妊娠の身)にあるので、この機に毒薬を投じて(皇后を)除けば、成君が皇后になれます。もし(あなたの)力を蒙って事が成ったら、富貴を少夫と共にしましょう。」
淳于衍が言いました「薬は雑治するもので(複数の医者が共に処方するもので)、しかも常に先に毒味されます。どうして成功できるでしょう。」
霍夫人が言いました「少夫のやり方にかかっています。将軍は天下を領しているので、誰が敢えて言及するでしょう。緩急(急事。危険)があっても(大将軍が)守ります。ただ少夫にその意がないことを恐れるだけです。」
淳于衍は久しく考えてから「尽力させてください(願尽力)」と言い、附子(毒薬)を砕きつぶして長安宮に持って行きました。
 
皇后が子を産んでから、淳于衍は附子を取り出して大医(太医)の大丸(丸薬)に混ぜ、皇后に飲ませました。
暫くして皇后が言いました「頭が岑岑(痛い様子)とします。薬の中に毒が入っていたのではありませんか?」
淳于衍は「ありません(無有)」と答えます。
皇后はますます煩懣(もだえ苦しむこと)して死んでしまいました。
 
淳于衍は宮を出て霍夫人に会いに行きました。二人は互いに慰労しあいましたが、霍夫人は他者に知られるのを恐れたため、厚く感謝するわけにはいきませんでした。
 
後にある人が上書して医者達を訴えました。皇后の病に臨んで為すべきことを為さなかったからです。
宣帝は全て逮捕して詔獄(皇帝が管理する獄)に繋ぎ、不道(無道)の罪を糾弾しました。
 
霍夫人は自分に危険が訪れることを恐れて霍光に詳細を語り、「既に失計して(失策、失敗して)これを為してしまいました(既に誤ってこうしてしまいました)。吏に衍(淳于衍)を追いつめさせないでください」と言いました。
霍光は大いに驚いて自ら妻を告発しようとしましたが、心中で忍びず躊躇します。
官吏が事件について上奏すると、霍光は奏章の上に「淳于衍の罪を論じる必要はない(衍無論)」と書き記しました。
 
事件が終息したため、霍夫人は娘を入宮させるように霍光に勧めました。
 
尚、許皇后は宣帝が即位する前に劉奭(後の元帝を生んでいるので(昭帝元平元年74年参照)、今回生んだのは第二子のはずです。
しかし第二子がこの後どうなったのかはわかりません。
 
 
 
次回に続きます。