西漢時代181 宣帝(五) 匈奴の衰弱 前71年(2)

今回は西漢宣帝本始三年の続きです。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
正月戊辰(十八日)、漢の五将軍(前年参照)長安を出発しました。
匈奴は漢兵が大挙出征したと聞き、老弱を連れて奔りました。畜産も逐って遠くに遁走します。
そのため五将軍の戦果は多くありませんでした。
 
夏五月、漢軍が撤兵しました。
度遼将軍范明友は張掖から塞を出て千二百余里進み、蒲離候水に至りました。斬首捕虜は七百余人です。
前将軍韓増は雲中から塞を出て千二百余里進み、烏員(地名)に至りました。斬首捕虜は百余人です。
蒲類将軍趙充国は酒泉から塞を出て千八百余里進み、西の候山に至りました。斬首捕虜は単于使者蒲陰王以下三百余人です。
匈奴が既に退いたため、三将軍とも約束の二千里に至る前に引き上げました。宣帝は二千里進軍しなかった過失を軽いものとみなし、寛大に裁いて無罪としました。
 
祈連将軍(祁連将軍)田広明は西河から塞を出て千六百里進み、雞秩山に至りました。斬首捕虜は十九人のみです。
ちょうど漢の使者で匈奴から還って来た冉弘等に遭遇しました。
資治通鑑』胡三省注によると、冉氏は楚の大夫叔山冉の子孫です。また、孔子の弟子に冉伯牛冉有がいました。
 
冉弘等が「雞秩山の西に虜衆匈奴の衆)がいます」と言いましたが、田広明は兵を還したいため、冉弘等を戒めて虜匈奴はいないと言わせました。
御史属公孫益寿が田広明を諫めて撤兵に反対しましたが、田広明は聞かずに引き上げました。
 
虎牙将軍田順は五原から塞を出て八百余里進み、丹餘吾水沿岸に至りました。そこで兵を止めて進まなくなり、千九百人を斬首捕虜にして兵を還しました。
 
宣帝は田広明が前方に匈奴がいると知っていながら逗遛して進まず、田順も予定の地まで進軍する前に兵を退き、しかも鹵獲(戦果)を偽って水増ししたとして、二人とも吏(官吏。獄吏)に下しました。
二人は自殺します。
田順はかつての丞相田千秋の子です。『漢書公孫劉田王楊蔡陳鄭伝(巻六十六)』によると、田順は田千秋(定侯)を継いで富民侯になりましたが、自殺したため侯国も廃されました。
 
宣帝は公孫益寿を抜擢して侍御史にしました。
 
烏孫昆彌烏孫王)は自ら五万騎を指揮し、漢の校尉常恵と共に西方から匈奴右地(西部)に進攻しました。
右谷蠡王庭に入り、単于の父行(父の世代の貴族)や嫂、居次、名王、犂汙都尉、千長、騎将以下四万人を得て、馬、牛、羊、驢、橐佗(駱駝)七十余万頭を奪いました。烏孫が虜獲(戦果)を全て自国のものとします。
資治通鑑』胡三省注によると、「居次」は匈奴単于の娘の号で、漢の公主のようなものです。「犂汙都尉」は匈奴犂汙王の都尉です。「千長」は千人の長です。
漢書傅常鄭甘陳段伝(巻七十)』はこの時の戦果を「単于の父行および嫂、居次、名王、騎将以下三万九千人を捕え、馬、牛、驢驘(驢騾)、橐佗五万余頭、羊六十余万頭を得た」としています。
資治通鑑』は『漢書西域伝下(巻九十六下)』に従っています(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
武帝は五将軍に功がなく、常恵だけが使者の任務を奉じて勝利を得たため、長羅侯に封じました。
 
一方、匈奴の民衆で負傷して逃げた者や、遠くに逐われて死んだ畜産は数え切れないほどになりました。匈奴は国力を消耗させ、烏孫をますます怨むようになります。
 
宣帝が再び常恵に金幣を持たせて西域に派遣しました。烏孫の貴人で功がある者に金幣を下賜します。
常恵は亀茲国がかつて校尉頼丹を殺したのにまだ誅に伏していなかったため(昭帝元鳳四年77年参照)、ついでに攻撃することを請いました。
しかし宣帝は同意しません。
大将軍霍光は常恵に状況に応じて臨機応変に行動するよう、遠回しに指示しました。
 
常恵は吏士五百人と共に烏孫を訪れ、帰りに通った場所で西国(亀茲以西の国)の兵を徴集して二万人を得ました。副使に命じて亀茲東国(亀茲以東の国)の二万人と烏孫兵七千人も動員させ、三面から亀茲を攻めます。
三路の兵が合流する前に、人を送って亀茲王がかつて漢の使者を殺した事を譴責しました。
亀茲王は謝罪して「それは私の先王の時代に貴人姑翼のせいで誤ったのだ。私は無罪だ」と言いました。
常恵が言いました「それならば姑翼を縛って来い。わしは王を置いてやろう(王は赦してやろう)。」
亀茲王は姑翼を縛って常恵を訪ねました。
常恵は姑翼を斬って帰還しました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
大旱に襲われました。
郡国で旱害の被害が甚大な地域は、民の租賦を免除しました。
三輔の民で貧困な者は收事(租賦徭役)を本始四年(翌年)まで免除しました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月己丑(十一日)、丞相陽平侯蔡義(節侯)が死にました。
荀悦の『前漢紀』は「六月乙丑」としていますが、「己丑」の誤りです(『資治通鑑』胡三省注)
 
甲辰(二十六日)、長信少府韋賢を丞相にしました。
大司農魏相を御史大夫にしました。
前任の御史大夫は田広明でしたが、匈奴戦の失敗で自殺し、空位になっていました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬、匈奴単于が自ら数万騎を率いて烏孫を撃ち、老弱の者多数を得ました。
引き上げようとした時、ちょうど大雪が降り、一日に一丈余も積もりました。人民、畜産とも凍死し、帰還できた者は十分の一もいません。
 
丁令が匈奴の弱体化に乗じて北を攻め、烏桓が東に侵入しました。烏孫も西を撃ちます。
三国は併せて匈奴人数万人と馬数万頭および多数の牛羊を殺しました。
しかも餓死が重なったため、匈奴の人民の死者は十分の三に上り、畜産も十分の五を失いました。
匈奴は大いに虚弱化し、諸国で羈属(服属)していた者も全て瓦解しました。周辺諸国匈奴を侵略しても成す術がなくなります。
 
後に漢が三千余騎を三道から出して同時に匈奴に進攻させました。数千人の捕虜を得て還ります。
匈奴には報復する力がなく、ますます漢との和親を望みました。
この後、辺境の戦事が減少します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、潁川太守趙広漢を京兆尹に任命しました。
 
潁川の俗(気風)では豪桀が集まって朋党を作っていました。
趙広漢は缿筩(書信を入れる竹筒)を設けて吏民の投書を受け入れ、人々を互いに告訐(告発譴責)させました。そのため吏民は互いに怨んで咎めあい、姦党が離散して盗賊も動けなくなりました。
 
匈奴から降った者が「匈奴中の者が皆、広漢の名を聞いている」と言ったため、宣帝は趙広漢を長安に入れて京兆尹に任命しました。
 
趙広漢が吏(官吏。部下)に会う時は慇懃周到で、ある事において功善(功績や褒賞)があったら下の者に帰させ、行動は至誠から生まれていたため、全ての吏が趙広漢に用いられることを願い、僵仆(倒れること。犠牲になること)も避けませんでした。
趙広漢はとても聡明で、部下の能力が何に向いているか、尽力できるかどうか等を全て把握していました。偽り裏切る者がいたらすぐに逮捕し、逃げられた者はいません。
案件を調査して証拠がそろったら、罪を確定させてすぐに辜(罪。刑)に伏させました。
趙広漢は特に鉤距(誘導して内情を探り出すこと)によって事象の真実を得ることに長けており、閭里で起きた銖両の姦(些細な犯罪)でも全て知っていました。
 
ある時、長安の少年(若者)数人が窮里(里中の人がいない場所)の空舍(空家)に集まって強盗の計画を練りました。ところが坐ったばかりで話も終わらないうちに趙広漢が官吏を送って逮捕しました。調査の結果、皆罪を認めます。
このように姦者を見つけて隠された悪事を暴く様子は神のようでした。
 
趙広漢のおかげで京兆の政治が清明になり、吏民は絶えることなく称賛しました。
長老は漢が興てから今まで、京兆を治めた者の中で趙広漢に勝る者はいないと語りました。
 
 
 
次回に続きます。