西漢時代182 宣帝(六) 夏侯勝 前70~69年
今回は西漢宣帝本始四年と地節元年です。
西漢宣帝本始四年
辛亥 前70年
春正月、宣帝が詔を発しました「農とは興徳の本(徳を興す基本)だと聞いている。今年は不作なので(今歳不登)、既に使者を派遣して困乏を振貸(救済)させた。今また太官には膳(皇帝の食事)を減らして宰(料理人)を省かせ(損膳省宰)、楽府には楽人を削減させ、帰って農業に従事させる。丞相以下、都官(京師の官署)の令・丞に至るまで、納める穀物の量を上書して長安倉に輸送し、貧民救済を援けよ。民で車船に穀物を載せて関に入る者は、伝符(通行証)を用いる必要はない。」
三月乙卯(十一日)、霍光の娘が皇后に立ちました。
丞相以下、郎吏、従官に至るまで、序列に応じて金銭帛を下賜しました。
天下に大赦しました。
許皇后は微賎の身から皇后になり、至尊の地位に登った日も短かったため、従官も車服も極めて節倹でした。
しかし霍皇后が立つと、轝駕(皇后の車)も侍従も盛大になり、官属への賞賜は千万を数え、許皇后の時代から一変しました。
ある地域では山が崩れて水(川)が溢れ、城郭や室屋(家屋)が倒壊し、六千余人が死にました。
北海と琅邪では祖宗廟(高祖廟と文帝廟)が破壊されました。
宣帝が詔を発しました「災異というのは天地の戒である。朕は洪業(大業)を受け継いで宗廟を奉じ、士民の上に託されたが、まだ群生(民衆)と和すことができない。最近、北海、琅邪で地震があり、祖宗廟が破壊された。朕は甚だこれを懼れる。よって丞相、御史と列侯、中二千石は経学の士に広く問い、異変に対応して朕の及ばないことを援けられる内容があったら、隠さず報告せよ。三輔、太常、内郡国(辺境を含まない内地の郡国)に命じて賢良方正を各一人挙げさせる。律令において、百姓を安んじるために蠲除(廃除)できる内容があったら條奏せよ(一つ一つ上奏せよ)。地震を被って壊敗がひどい者は、租賦を徴収しないことにする。」
天下に大赦しました。
また、祖宗廟が破損したため、宣帝は素服(白服。喪服)を着て正殿を五日間避けました。
夏侯勝と黄霸を釈放し(宣帝本始二年・前72年参照)、夏侯勝を諫大夫・給事中に、黄霸を揚州刺史に任命しました。
夏侯勝の為人は実直質朴で正道を守り(質樸守正)、人と容易に接することができて威儀(厳格な態度)がありませんでした。
ある時は宣帝を「君」と呼び、ある時は皇帝の前で誤って他者の字を呼ぶこともありました(天子の前では、臣下は名を呼び合うもので、字を呼ぶのは無礼とされていました)。
宣帝はますます夏侯勝に親しんで信任しました。
ある日、夏侯勝が宣帝に謁見し、退出してから宣帝の言葉を外の者に話しました。
それを聞いた宣帝が夏侯勝を譴責すると、夏侯勝はこう言いました「陛下が語った事が善かったので、臣はそれを宣揚したのです。堯の言は天下に布かれて今に至るまで諳んじられています。臣は伝えるべきだと思ったので伝えたのです。」
朝廷で大議がある度に宣帝は夏侯勝がかねてから率直であることを知りました。そこでこう言いました「先生が正言を建てる(述べる)時、前事(詔に逆らって投獄された事)に懲りる必要はない(憚ることなく正言を述べればよい)。」
夏侯勝は再び長信少府になり、後に太子太傅を勤めました。
儒者はこれを栄誉としました。
五月、鳳皇が北海郡の安丘と淳于に集まりました(または「止まりました」)。
広川王・劉去が自分の師や姫妾十余人を殺しました。ある者は熔かした鉛錫を口の中に注がれ、ある者は肢解(死体を切断すること)されてから毒薬で煮て溶かされました。
朝廷が広川王の罪を問い、王位を廃して上庸に遷しました。
劉去は自殺しました。
劉越の死後、子の繆王・劉斉が継ぎました。
広川国は一度廃されます。
本年、劉去が自殺した時、王后(劉去の妻)の昭信も劉去と残虐な行為を繰り返していたため、棄市に処されました。
西漢宣帝地節元年
壬子 前69年
春正月、西方に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
三月、郡国の貧民に田地を貸し与えました。
夏六月、宣帝が詔を発しました「堯は九族と親しむことで、万国と和したと聞いている。朕は遺徳(先祖が残した徳)のおかげで聖業を継承したので、いつも宗室の属(一員)で尽きていないのに(家系が途絶えていないのに)罪によって絶えている者のことを念じている。もし賢材(賢才)があり、行いを改めて善を勧めている者がいたら、その属(宗室の籍)を回復して自新の機会を与えることにする。」
初代の楚王は高帝の弟で元王・劉交です。その孫・劉戊の時代に呉楚七国の乱が起き、劉戊は誅されました。
その後、元王の子・平陸侯・劉礼が楚王に立てられました。これを楚の文王といいます。文王の後、安王・劉道、襄王・劉注、節王・劉純と継承して劉延寿に至りました。
『資治通鑑』に戻ります。
劉延寿はこの婚姻関係を利用し、趙何斉を派遣して広陵王に書を届けさせます。そこにはこう書かれていました「耳目を長くすることを願います(機会を失わないために広く情報を集めてください)。人が天下を有するのに遅れてはなりません(天下を争うのに人に遅れてはなりません。原文「毋後人有天下」)。」
趙何斉の父・趙長年がこれを知って朝廷に上書しました。
宣帝が有司に調査させた結果、劉延寿は罪を認めました。
冬十一月、楚王・劉延寿が自殺しました。
十二月癸亥晦、日食がありました。
この年、于定国が廷尉になりました。
『資治通鑑』胡三省注によると、周武王の子が邘に封じられ、子孫が国名を氏にしました。後に「阝」が除かれて于氏になりました。
于定国は疑獄を解決する際、公平に法を執行し、努めて鰥寡(配偶者を失った男女)を哀れみ、罪証に疑いがある場合は軽い刑を施して周密慎重な心を加えました。
朝廷は于定国を称賛して「張釋之が廷尉になったら天下に冤民(冤罪を受ける民)がなくなった。于定国が廷尉になったら民が冤罪にならないと信じるようになった」と言いました。
次回に続きます。