西漢時代183 宣帝(七) 霍光の死 前68年(1)

今回は西漢宣帝地節二年です。二回に分けます。
 
西漢宣帝地節二年
癸丑 前68
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春、霍光が病いに倒れて危篤に陥りました。
車駕(皇帝の車。宣帝)が自ら見舞いに行き、霍光のために涙を流します。
霍光は上書して恩に謝し、自分の国邑(博陸侯)から三千戸を分けて兄(霍去病)の孫に当たる奉車都尉霍山を列侯に封じ、兄霍去病の祀(祭祀)を受け継がせることを請いました。
漢書衛青霍去病伝(巻五十五)』によると、冠軍侯霍去病の死後、子の霍嬗が継ぎました。霍嬗の字は子侯といいます。武帝は霍嬗を寵愛し、壮年になったら将にしたいと思っていました。霍嬗は奉車都尉となり、泰山の封禅にも従います武帝元封元年110年)
しかし早逝して子がいなかったため、冠軍侯国は廃されました。
霍光は霍去病の孫に当たる霍山に霍去病の祭祀を継がせようとしました。
 
尚、霍山は霍去病の孫ですが、霍去病の嫡子・霍嬗には子がいなかったので、霍去病には霍嬗以外にも子がいたことになります。但し冠軍侯国は霍嬗の死によって廃されたので、霍嬗以外の子は庶子だったのかもしれません。
また、霍山には霍雲という兄もいます(宣帝本始元年73年参照)
 
資治通鑑』に戻ります。
この日、宣帝が霍光の子霍禹を右将軍に任命しました。
 
三月庚午(初八日)、大司馬大将軍霍光が死にました。
宣帝と皇太后(上官氏。霍光の孫)が自ら霍光の喪に臨みます。
中二千石の官員が冢(墳墓)の造設を管理し、霍光には乗輿(皇帝の器物)の制度と等しい梓宮(梓木の棺)や葬具を下賜しました。宣成侯という諡号が贈られます。
 
三河の士卒を動員して墓穴を掘らせ、棺を埋めました(穿復土)
園邑として三百家を置き、長丞に奉守(墓守と祭祀)させました。
 
宣帝が詔を発しました「大司馬大将軍博陸侯は孝武皇帝を三十余年宿衛し、孝昭皇帝を十余年補佐し、大難に遭遇しても身をもって義を堅持し(躬秉義)、三公、諸侯、九卿、大夫を率いて万世の策を定め、それによって宗廟を安定させた。天下の蒸庶(民衆)が全て康寧になり、功徳が茂盛しているので、朕は甚だこれを嘉する。後世の賦税徭役を免除し(復其後世)、その爵邑を等しくさせ(『宣帝紀』の注によると、通常は子孫が封国を受け継ぐ時、食邑を減らされたようです。霍光の子孫はそれを免除されました)、世世(代々)変えないことにする(毋有所與)。功は蕭相国(蕭何)と同等である。」
 
御史大夫魏相が封事(封をした上奏文。密事)を提出しました。そこにはこう書かれています「国家が大将軍を失ったばかりなので、功臣を顕明(称揚。功績を明らかにすること)して藩国を鎮め、大位を空にしないことで争権を防ぐべきです。車騎将軍安世(張安世)を大将軍とし、光禄勳の政務を兼任させず(毋令領光禄勳事)、その子延寿を光禄勳にするべきです。」
宣帝も張安世を用いたいと思っていました。
 
夏四月戊申(十七日)、張安世を大司馬車騎将軍に任命し、尚書の政務を兼任させました(領尚書事)
尚書は皇帝に直属する中枢の機関だったため、武帝の時代から権力を握るようになっていました。かつて霍光も領尚書事になっています。
 
以下、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)からです。
漢書公卿百官表下』では地節三年(翌年)四月戊申に張安世が大司馬になり、七月戊戌に衛将軍になっています。また、同日に霍禹が大司馬になりますが、七月壬辰に要斬(腰斬)に処されます。
荀悦の『前漢紀』では、三年四月戊辰に張安世が大司馬になっています。
しかし翌年の四月には戊辰がなく(『前漢紀』の「四月戊辰」は誤りです)、七月には戊戌がありません(『漢書公卿百官表下』の「七月戊戌」は誤りです)
漢書帝紀』『張湯伝(巻五十九)』『霍光金日磾伝(巻六十八)』を見ると、張安世は本年に司馬になり(『張湯伝』では霍光が死んで数か月後に魏相が上奏し、その数日後に張安世が大司馬車騎将軍になっています)、翌年(地節三年)十月に衛将軍になります(『張湯伝』では車騎将軍の屯兵を廃止した時、張世安を衛将軍に改めています。『宣帝紀』を見ると、地節三年十月に車騎将軍と右将軍の屯兵を廃止しています)。霍禹が死ぬのは地節四年七月の事です
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
鳳皇鳳凰が魯(『漢書帝紀』は「魯郡」としていますが、「魯国」の誤りです。『資治通鑑』は「魯」と書いています)に止まって群鳥がそれに従いました。
天下に大赦しました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
光禄大夫平丘侯王遷が罪を犯して獄に下され、死亡しました。
 
漢書外戚恩沢侯表』によると、王遷は尚書の職務を処理している時、他者の請願を聴いて六百万銭の賄賂を受け取ったため罪を問われました。
 
 
 
次回に続きます。