西漢時代185 宣帝(九) 皇太子 前67年(1)

今回は西漢宣帝地節三年です。四回に分けます。
 
西漢宣帝地節三年
甲寅 前67
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
春三月、宣帝が詔を発しました「功があるのに賞さず、罪があるのに誅さなかったら、たとえ唐(堯舜)でも天下を治められない(教化できない。原文「不能化天下」)と聞いている。今、膠東相(膠東王国の相)王成は労来(恩徳によって民を懐柔すること)して怠ることなく、自占(自ら帰順すること)した流民は八万余口に上り、政治に異等(尋常ではないこと)の效(成果)があった。よって王成に関内侯の爵を下賜し、秩中二千石の官職を与える。」
しかし王成を朝廷に招いて用いる前に、王成は病を患って現職のまま死んでしまいました。
 
後に宣帝が詔を下し、丞相、御史に命じて郡国から上計(戸籍や財政を朝廷に報告すること)に来た長史や守丞に政令の得失に就いて問わせました。
するとある人がこう言いました「以前、膠東相成が偽って自ら(流民の数を)増加し、顕賞(厚賞)を蒙りました。あれから俗吏の多くが虚名を為して語るようになったのです。」
 
[] 『漢書帝紀』からです。
宣帝が詔を発しました「鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りのない老人)高年(老齢者)貧困の民を朕は憐れむ。以前、詔を下し、公田を貸し与えて種(穀物の種)(食糧)を提供した。今回、更に鰥寡孤独高年に帛を下賜する。二千石(地方の長官)は厳しく吏を指導して謹んで視遇(待遇すること。世話を視ること)させよ。(官吏に)(職責)を失わせてはならない。」
宣帝は内郡国に命じて民と親しむことができる賢良方正の者を推挙させました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月戊申(二十二日)、宣帝が子の劉奭(許皇后の子)を皇太子に立てて、天下に大赦しました。
 
御史大夫(魏相)に関内侯の爵位を与え、中二千石の官員に右庶長の爵位を与えました。
漢書』の注によると、公孫弘以来、丞相は常に列侯に封ぜられて、爵位が第二十等になりました。そのため、御史大夫には第十九等に当たる関内侯の爵位を与えました。右庶長は第十一等です。
但し、御史大夫と中二千石に爵位を与えたのは皇太子を立てたからで、常制(通常の制度)になったわけではありません。
 
天下で父の後を継ぐ立場にいる者には爵一級を下賜しました。
 
広陵劉胥武帝の子)に黄金千斤を、その他の諸侯王十五人にはそれぞれ黄金百斤を与え、列侯で封国にいる者八十七人にはそれぞれ黄金二十斤を与えました。
 
丙吉を太傅に、太中大夫疏広(疏が姓です)を少傅にしました。
 
太子の外祖父許広漢(許皇后の父)を平恩侯に封じました。
また、霍光の兄(霍去病)の孫に当たる中郎将霍雲を冠陽侯に封じました。
 
霍顕(霍光の妻)は劉奭が太子に立てられたと聞き、憤怒して食事もとらず、血を吐いてこう言いました「彼は(皇帝が)民間の時にできた子だ。どうして(太子に)立てたのだ。もし后(霍皇后。霍光と霍顕の娘)に子ができたとしても、逆に王になれと言うのか!」
霍顕は皇后を使って太子を毒殺させようとしました。
皇后はしばしば太子を招いて食事を下賜しました。しかし、保(保母、阿母)がいつも先に味見したため、皇后は毒を隠し持つだけで手が出せませんでした。
 
尚、『資治通鑑』は霍光の妻を「霍顕」としていますが、当時は同姓の結婚が原則として禁止されていたので、妻の姓は恐らく霍ではありません。また、中国では婚姻後に妻が夫の姓を名乗ることもありません(現在でも夫婦別姓が基本です)。霍光の妻は姓氏が伝わっていないため、便宜上、「霍顕」としています。
 
また、荀悦の『前漢紀』は前年(地節二年)夏四月戊辰に皇太子を立てて天下に大赦したとしていますが、『漢書帝紀』を始め、『雋疏于薛平彭伝(巻七十一)』『魏相丙吉伝(巻七十四)』も本年の事としているので、恐らく『前漢紀』が誤りです(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
[] 『資治通鑑』からです。
五月甲申(二十九日)、丞相韋賢が老病を理由に引退を請いました(乞骸骨)
宣帝は黄金百斤、安車(座って乗る小車)、駟馬(四頭の馬)を下賜し、韋賢が官を辞して家に帰ることを許しました(罷就第)
丞相の致仕(引退。退職)は韋賢から始まります。
 
六月壬辰(初七日)御史大夫魏相を丞相に任命しました。
辛丑(十六日)、太子太傅丙吉を御史大夫に、少傅疏広を太傅に、疏広の兄の子疏受を少傅にしました。
 
太子劉奭の外祖父平恩侯許伯(許広漢)は太子がまだ幼いため、弟の中郎将許舜に太子の家を監護させるように上奏しました。
宣帝が疏広に意見を求めると、疏広はこう答えました「太子は国儲副君(国の後継者)なので、必ず天下の英俊を師友とするべきです。外家(母の実家)の許氏だけと親しくするのは相応しくありません。それに太子には既に太傅、少傅がおり、官属が備わっています。今また許舜に太子の家を護らせたら、(天下に)(狭窄。低劣。外家だけを尊重していること。または太傅と少傅に能力がないこと)を示すことになってしまいます。これでは太子の徳を天下に広められません。」
宣帝はこの意見に納得して丞相魏相に語りました。
魏相は冠を脱ぎ、「これは臣等が及ぶところではありません」と言って謝りました(魏相が謝ったのは許広漢と親しくしていたからだと思われます)
この後、疏広は宣帝に重視されるようになります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
京師で大雹が降りました。
 
大行丞で東海の人蕭望之が上書しました(「大行丞」というのは『資治通鑑』の記述です。『漢書蕭望之伝(巻七十八)』では蕭望之の官職を「大行治礼丞」としています)。大臣が執政して一姓(霍氏)が専権しているため天災をもたらしたという内容です。
宣帝はかねてから蕭望之の名を聞いていたため、謁者に任命しました。
 
当時は宣帝が広く賢俊を招いていたため、多くの民が上書して治世の便宜(利便)となる事を述べました。
宣帝はいつも上書を蕭望之に見せて意見を聞き、蕭望之が高者(能力が高い者)と認めたら丞相や御史に試させ、次者(やや劣る者)は中二千石に試させました。それぞれ満一年になったら試用期間の状況を報告させます。
下者(能力が無い者)は蕭望之から宣帝に報告して試用せずに帰らせました。
蕭望之の意見はいつも宣帝の意にかなっていたため、必ず採用されました。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、宣帝が詔を発しました「先日、九月壬申(十九日)地震があったので、朕は甚だ(天譴を)懼れている。朕の過失を指摘できる者および賢良方正直言極諫の士は、朕の及ばない部分を正せ。有司(官吏)を憚る必要はない(官員の過失も隠さず報告せよ)。朕は不徳のため遠方を帰順させることができず、それが原因で辺境の屯戍(守備)を廃止できない。今また兵を整えて屯(駐屯兵)を増加し、久しく百姓を労しているが、これは天下を安定させる方法ではない。よって車騎将軍(張安世)と右将軍(霍禹)の屯兵を解散させることにする。」
 
宣帝がまた詔を発しました「池籞(皇室の池や苑)で御幸したことがない場所は貧民に貸し与える。郡国の宮館を新たに修治(修築)してはならない。流民で(故郷に)帰還した者には公田を貸して種食穀物の種や食糧)を提供し、暫く算事人頭税と徭役)を免除する。」
 
 
 
次回に続きます。