西漢時代186 宣帝(十) 宣帝と霍氏 前67年(2)

今回は西漢宣帝地節三年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
霍氏が驕侈縦横(驕慢奢侈放縦横柄)になりました。
太夫顕は広く第室(府邸。邸宅)を修築し、輿輦(天子の車)を作って乗用しました。輿輦には絵が描かれおり、絪馮(座席と軾)錦繍で装飾され、車体には黄金が塗られ、車輪は緩衝のために皮や綿で包まれています。
侍婢が五采(五色)の絲(絹)で霍夫人顕の車輦を牽き、邸宅の中で遊びました。
また、夫人顕は監奴(家事を管理する奴僕)馮子都と乱(淫乱。姦通)しました。
 
霍禹と霍山もそれぞれ第宅(邸宅)を修築し、平楽館で馬を駆けさせました。
霍雲は朝請(朝見)の時もしばしば病と称して出席せず、勝手に外出しました。多くの賓客が従い、黄山苑中で囲猟(狩猟)をします。霍雲は自分の代わりに倉頭奴(蒼頭奴。奴僕です。漢代の奴僕は蒼い頭巾を被らせて庶民と区別していたたため、「蒼頭」と呼ばれていました)を送って朝謁(入朝謁見)させましたが、誰も譴責しませんでした。
夫人顕と諸女(娘達)は昼も夜も長信宮殿中(上官太后が住んでいます)に出入りし、限度がありませんでした。
 
宣帝は民間にいた頃から霍氏の尊盛が久しい事を聞いており、心中ではこれを善いことだと思っていませんでした。
自ら朝政を始めてからは霍氏の者ではなく、御史大夫魏相を給事中にして傍に置きました。
 
霍夫人顕が警戒して霍禹、霍雲、霍山に言いました「汝等(女曹)が大将軍の余業を奉じることに務めないので、今は大夫(魏相が御史大夫の時代です)が給事中になってしまいました。一旦、誰かが汝等を誹謗したら(原文「他人壹間女」。「間」は「けしかける」「問題を起こさせる」または「仲を裂く」という意味です)、汝等はまだ自分を救うことができますか。」
 
後に霍氏と魏氏の家奴が道を争ったことがありました。霍氏の家奴が御史府に入り、魏家の門を蹴り破ろうとします。
御史大夫魏相が叩頭して謝ったため霍氏の家奴はやっと帰りました。
ある人がこの事を霍氏に伝えました。夫人顕等は始めて憂慮を抱くようになります。
 
やがて魏大夫(魏相)が丞相になりました。しばしば宣帝に燕見(皇帝の暇な時に謁見すること)して政事について語ります。平恩侯許広漢や侍中金安上等も直接、省中(禁中)に出入りしました。
当時は霍山が尚書の政務を兼任していましたが(領尚書、宣帝が吏民に封事(密封した書)の上奏を許可したため、群臣がそれぞれ直接皇帝に進言できるようになり、尚書が上奏の内容に干渉する機会が失われていました。霍氏はこの状況を嫌いました。
 
この頃、宣帝は霍氏が許后を毒殺したという情報をしばしば耳にするようになりました。しかしまだ調査をするには至っていません。
そこで宣帝は霍光の女壻(娘婿)に当たる度遼将軍未央衛尉平陵侯范明友を光禄勳に遷し、次壻(次女の婿)に当たる諸吏中郎将羽林監任勝を朝廷から出して安定太守に任命しました。
数カ月後、更に霍光の姉壻(姉の婿)に当たる給事中光禄大夫張朔を朝廷から出して蜀郡太守に任命し、孫壻(孫娘の婿)に当たる中郎将王漢を武威太守に任命しました。
暫くしてまた霍光の長女の壻(婿)に当たる長楽衛尉鄧広漢を少府に任命しました。
 
戊戌(十四日。中華書局『白話資治通鑑』は八月としていますが、恐らく十月です)、車騎将軍張安世を衛将軍に遷し、両宮の衛尉と城門、北軍の兵を属させました。
資治通鑑』胡三省注によると、両宮は未央宮と長楽宮です。城門は京城十二門を指します。北軍北軍八校兵(八営の禁兵)です。
 
宣帝は霍禹を大司馬に任命しましたが、小冠を被らせました(『資治通鑑』胡三省注によると、大司馬大将軍は本来、武弁大冠を被ります)
霍禹には印綬がなく、屯兵官属も廃止しました。霍禹は官名が霍光と同じ大司馬になっただけで、実権はありませんでした。
 
范明友からも度遼将軍の印綬を回収し、光禄勳だけを担当させました。
霍光の中女(長女と末子以外の娘)の壻(婿)に当たる趙平は散騎騎都尉光禄大夫として屯兵を指揮していましたが、宣帝は騎都尉の印綬を回収しました。
資治通鑑』胡三省注によると、散騎騎都尉というのは騎都尉に散騎官を加えられたことを意味します。散騎は中常侍と同じく加官(兼任の官)で、中常侍は禁中に出入りができ、散騎は乗輿車(皇帝の車)に並んで騎乗しました。列侯から郎中に至るまで、誰もが散騎および中常侍の加官を得ることができました。散騎と中常侍には定員がありません。
 
この他にも、胡騎、越騎、羽林および両宮の衛将屯兵を指揮する官職は全て宣帝が信任する許氏と史氏の子弟に換えられました。
許氏は許皇后の親族、史氏は戻太子劉據の妻史良娣(宣帝の祖母)の親族です。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
十一月、宣帝が詔を発しました「朕は(思慮が)行き届かず、導民が不明なため、不安で夜も眠れず朝早くから起きている(反側晨興)。万方を念慮して(天下の事を考えて)元元(民衆)を忘れたことはない。ただ先帝の聖徳を辱めることを恐れているので、万姓(万民)と親しくするために賢良方正を同時に推挙させ、年を重ねて今に至る(歴載臻茲)。しかし俗化(教化)はまだ完全ではない。こういう言葉が伝えられている『孝悌とは仁の根本である(原文「孝弟也者,其為仁之本與」。『論語』の一文です)。』よって郡国に命じ、孝弟()で郷里に行義が知られている者を各一人推挙させる。」
 
 
 
次回に続きます。