西漢時代188 宣帝(十二) 廷尉平 前67年(4)

今回で西漢宣帝地節三年が終わります。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、宣帝が詔を発しました「最近、吏(官吏)が法を用いて文を巧みにする状況がますます深刻になっている。これは朕の不徳が原因である。決獄が不当なら罪がある者が興り、不辜(無罪)の者が戮を蒙ることになる(罪が重いのに刑が軽かったら犯罪が横行し、罪が軽いのに刑が重かったら無罪の者でも刑を受けることになる)(このような状況に)父子が悲恨し、朕は甚だ心を痛めている。今は廷史(廷尉史)を派遣して郡の鞠獄(案件の処理)に参与させているが、任(職権)が軽く禄が薄いので、改めて廷尉平を置き、秩六百石、定員四人とする。公平に務めて朕の意に沿わせよ。」
こうして四人の廷尉平が設けられ、秩六百石と定められました。
 
毎年、秋の請讞(疑獄の判決を請うこと。恐らくここでは一年の案件を総決するという意味)の時になると、宣帝はしばしば宣室(『資治通鑑』胡三省注によると、未央宮の宣室殿を指します)を訪れ、斎居(斎戒して住むこと)して自ら獄案を裁決しました。
この後、獄刑が公平を宣揚するようになります。
 
涿郡太守鄭昌が上書しました「今は明主が自ら注意して案件を正しく裁決しているので、たとえ廷平(廷尉平)を置かなくても、獄は自然に正しくなります。しかし後嗣のために(道を)開くのなら、律令を刪定するべきです。律令が一度定まれば、愚民は避けるべきことを知り、姦吏は(法を)弄ぶことができなくなります。今はその本を正さず、廷平を置いてその末を治理していますが、政治が衰えて裁決を怠るようになったら(政衰聴怠)、廷平が権を求めて乱首となってしまうでしょう。」
 
[十一] 『漢書帝紀』からです。
文山郡を廃して蜀郡と合併しました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
昭帝時代、匈奴が四千騎を派遣して車師国で屯田を始めました(田車師)
しかし宣帝本始三年(前71年)、漢の五将軍が匈奴を攻めると、車師の田者匈奴屯田兵は驚いて去り、車師が再び漢と通じました。
怒った匈奴は車師の太子軍宿を招いて質(人質)にしようとします。
軍宿は焉耆王の外孫(焉耆王の娘の子)だったため、匈奴の人質になろうとせず、焉耆国に逃走しました。
車師王は軍宿の代わりに王子烏貴を太子に立てます。
烏貴が即位して車師王になると、匈奴と婚姻関係を結び、匈奴に漢と烏孫を結ぶ道を遮断させました。
 
この年、漢の侍郎で会稽の人鄭吉と校尉司馬憙が刑を免じられた罪人を率いて渠犂で屯田し、穀物を蓄えました。また、西域の城郭諸国から兵一万余人を動員し(西域諸国は多くが遊牧生活をしていましたが、一部は城郭を築いて都市を形成していました。この時は城郭を築いている国から兵を動員しました)、二人が指揮する屯田の士千五百人と共に車師を攻撃しました。
車師国は破れて車師王が投降を請います。
匈奴も兵を発して車師を攻めましたが、鄭吉と司馬憙が兵を率いて北上し、匈奴軍を迎え撃ったため、匈奴は前進できませんでした。
 
鄭吉と司馬憙は一候と卒二十人を留めて車師王を守らせてから、兵を率いて渠犂に還りました。
この出来事を『漢書西域伝下(六十六下)』は「地節二年(前年)」としていますが、『漢書匈奴伝上(巻六十四上)』は「地節三年」としており、『資治通鑑』は『匈奴伝』に従っています(『資治通鑑』胡三省注)
 
車師王は匈奴兵が再び攻めて来て殺されるのではないかと恐れ、軽騎で烏孫に奔りました。
鄭吉は車師王の妻子を迎えて伝車で長安に送ります。
 
匈奴は車師王の兄弟兜莫を車師王に立てました。但し、車師国の故地に留めず、余民を集めて東に遷します。
 
鄭吉は吏卒三百人を送って車師の故地で屯田させ、その地を充実させました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
宣帝は即位した時からしばしば使者を送って外家(母の実家)を求めました。宣帝の父は劉進といい、その妻は王夫人です。
しかし既に久しい時が流れていたため、似ている者は多数いても当人ではありませんでした。
 
この年、外祖母(母側の祖母)王媼および王媼の息子王無故と王武を捜し出しました。
「媼」は老女の意味です。但し、王媼の子無故と武が王姓なので、父(王媼の夫)が王姓で、王媼自身は違う姓のはずです(中国は夫婦別性です。子は通常、父の姓を名乗ります)。王媼は「王氏の妻」という意味に近いと思われます。
 
宣帝は王無故と王武に関内侯の爵位を与えました。
十日の間で与えた賞賜が鉅万(巨万)に及びました。
 
 
 
次回に続きます。