西漢時代189 宣帝(十三) 霍氏の陰謀 前66年(1)

今回は西漢宣帝地節四年です。三回に分けます。
 
西漢宣帝地節四年
乙卯 前66
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春二月、宣帝が外祖母王媼(前年参照)に博平君の号を与えました。
また、舅(母王氏の兄弟)王無故を平昌侯に封じ、王武を楽昌侯に封じました。
漢書外戚恩沢表』によると、王無故の諡号は節侯、王武の諡号は共侯です。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
酇侯蕭何の曾孫(『漢書蕭何曹参伝(巻三十九)』と『漢書高恵高后文功臣表』では「玄孫」。下述)蕭建世を封侯しました。
 
蕭何の子孫に関しては武帝元狩三年(前120年)武帝太初三年(前102年)に述べました。その続きを書きます。
武帝によって蕭慶(共侯)が改めて鄼侯に封ぜられ、その後、蕭寿成が継ぎました。
漢書蕭何曹参伝(巻三十九)』と『漢書高恵高后文功臣表』によると、蕭寿成は太常になりましたが、祭祀の犧牲が痩せていたため罷免され、国も廃されました。
今回、宣帝が詔を発して丞相や御史に蕭何の子孫を探させました。その結果、玄孫蕭建世等十一人を得ます。
宣帝は再び詔を下し、鄼の二千戸を蕭建世に封じて鄼侯にしました。
 
[] 『漢書帝紀からです。
宣帝が詔を発しました「孝によって民を導けば天下が順和する。今、百姓が衰絰凶災(衰絰は喪服です。ここでは祖父母や両親の死を意味します)に遭っても、吏の繇事(官吏が命じた徭役)のために埋葬ができないこともあり、孝子の心を傷つけている。朕は甚だこれを憐れむ。よって今後、大父母(祖父母)や父母の喪がある者は全て繇事(徭役)を無くし、收斂送終(納棺埋葬)ができるようにして子道を尽くさせることにする。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏五月、山陽と済陰で雞子(鶏の卵)のように大きな雹が降り、二尺五寸も積もりました。
二十余人が命を落とし、飛ぶ鳥も全て死にました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
宣帝が詔を発しました「父子の親(親しみ)と夫婦の道は天の性(本質)である。たとえ患禍があったとしても死を冒して助けるものだ。誠愛は心で結ばれ、仁厚の極みなので、どうしてそれに違えることができるだろう(父子夫婦の愛に逆らうことはできない)。よって今後、子で父母を匿まうことを首謀した者(父母の罪を隠した者)、妻で夫を匿った者、孫で大父母(祖父母)を匿った者は全て罪を裁かないことにする。父母が子を匿い、夫が妻を匿い、大父母が孫を匿い、(犯罪者の)罪が殊死(死罪)に値する者は、全て廷尉を通して(皇帝に)報告せよ(上請廷尉以聞)。」
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
宣帝が広川恵王劉越(景帝の子)の孫劉文を広川王に立てました。
 
広川王は宣帝本始四年(前70年)に劉去が自殺してから廃されていましたが、今回、劉去の兄劉文が新たに王に立てられました。これを戴王といいます。
漢書景十三王伝(巻五十三)』によると、劉文はかねてから正直で、劉去をしばしば諫めていたので封王されました。
 
[] 『漢書・宣帝紀』と『資治通鑑』からです。
霍顕(霍光夫人。夫婦別姓なので実際は霍氏ではないはずですが、便宜上、「霍顕」と書きます)と霍禹、霍山、霍雲は日々権勢が削がれていくのを見て、しばしば互いに啼泣して怨みを抱きました。
霍山が言いました「今は丞相(魏相)が用事し(政治を行い)、県官(天子)が彼を信用しているので、大将軍(霍光)の時代の法令がことごとく変更され、大将軍の過失が発揚されるようになった(大将軍の政治が否定されている)。また、諸儒生の多くは窶人子(貧しい家の子弟。賎しい身分)で、遠客飢寒なのに(遠くから来た食糧も衣服もままならないような者なのに)、妄説狂言を愛して忌諱を避けることがない(遠慮することがない)。大将軍は常に彼等を讎(仇讎)としていたが(憎んでいたが)、今の陛下は諸儒生と語るのを好み、人人は自ら上書して陛下の質問に答え、多くが我が家の事を話している。以前、ある上書は我が家の昆弟(兄弟)が驕恣だと言い、その言は絶痛(激烈)だったが、山(私)が遮って上奏しなかった。ところが後には上書する者がますます黠(狡猾)になり、封事(密封した書)を上奏し始めたため、(陛下は)いつも中書令に取りに行かせ、尚書が関われないようにしてますます人(霍氏)を信用しなくなった。また、聞くところによると民間では『霍氏が許皇后を毒殺した』と騒がれている。まさかそのような事があるだろうか(寧有是邪)。」
霍顕がひどく恐れて許皇后暗殺について詳しく話しました。
霍禹、霍山、霍雲が驚いて言いました「それならなぜ早く禹等に告げなかったのですか。県官(天子)が諸壻(霍氏の娘婿)を離散斥逐(放逐)したのはそのせいでしょう。これは大事です。誅罰は小さくありません。どうするつもりですか。」
この後、霍氏は邪謀(陰謀)を抱くようになりました。
 
霍雲の舅(母の兄弟)李竟が張赦という者と親しくしていました。
霍雲の家が慌ただしくなった様子を見て李竟にこう言いました「今は丞相(魏相)と平恩侯(許広漢)が用事しています(政治を行っています)太夫(霍顕)から太后(上官太后。霍光の孫娘)に話をさせて、まずこの二人を誅殺するべきです。陛下を動かせるのは(陛下を廃立できるのは。原文「移徙陛」)太后だけです。」
長安の男子張章がこれを知って告発したため、宣帝は廷尉と執金吾に調査させ、張赦等を逮捕しました。
しかし後に詔を発して検挙を中止させます。
 
霍山等はますます恐れてこう言いました「今回は県官(天子)太后を重んじたから究明しなかったのだ。しかし悪端(悪い兆)は既に現れた。久しく時が経ったらまた発するだろう(再び検挙が始まるだろう)。そして、今度発したら族滅される。先に動くべきだ。」
霍山等は娘達に命じてそれぞれの家に帰って夫に状況を告げさせました。娘達は夫に「どこに逃げる場所があるでしょう(禍から逃げることはできません。原文「安所相避」)」と言いました。
 
ちょうど李竟が諸侯王と通じていた事を問われ、朝廷で罪を裁かれました。李竟の供述は霍氏に及びます。
宣帝が詔を降しました「霍雲と霍山は宿衛に相応しくない。官職を免じて邸宅に帰らせる(免就第)。」
 
山陽太守張敞が封事で上書しました「臣が聞いたところ、公子季友は魯において功があり、趙衰は晋において功があり、田完は斉において功があり、皆、褒賞を受けて(皆疇其庸)子孫に及びました。しかし最後は、田氏は斉を簒奪し、趙氏は晋を分裂させ、季氏は魯で専権しました。だから仲尼孔子は『春秋』を作り、盛衰をたどって世卿を最も激しく批難したのです。かつては大将軍(霍光)が大計を決し、宗廟を安んじて天下を定めました。その功も小さくありません。周公(が西周成王に代わって政治を行った期間)は七年だけでしたが、大将軍は二十歳(年)になり、海内に発する命の決定権は完全に(大将軍に)掌握されました。(大将軍が)隆盛した時はまさに天地を感応させて動かし、陰陽に迫って侵すほどでした。
朝臣はこう明言するべきです『陛下は故大将軍を褒寵し、既に充分その功徳に報いました。最近は輔臣が顓政(専政)し、貴戚(貴人、親族)が盛んすぎるため、君臣の分が不明になっています。霍氏三侯を廃して皆、邸宅に帰らせることを請います。衛将軍張安世には几杖(肘掛けと杖)を下賜して帰休(退職)させ、時々、存問(慰問)召見して、列侯の立場で天子の師とするべきです。』
(陛下は)明詔によって恩を施して採用せず(陛下は霍氏に恩を施すため、詔を発して群臣のこの進言を退け)、群臣が義によって固く争ってから同意すれば(群臣が頑なに諫争してから陛下が同意すれば)、天下は必ず陛下が功徳を忘れていないと思い、朝臣は礼を知り、霍氏は世世(代々)患苦がなくなります。今、朝廷では直声(直言)を聞くことができず、その文(霍氏を退ける内容)を陛下の詔によって明らかにさせようとしていますが(群臣が意見を述べず、陛下自身に詔を出させようとしていますが)、これは的を得た策ではありません。今、両侯(霍雲と霍山)が既に(朝廷を)出ました。人情とは遠くないので(人の考えとはどれもそれほど変わらないので)、臣の心で推測するなら、大司馬(霍禹)および枝属(親族)は必ず畏懼の心を抱いています。(天子の)近臣に危惧させるのは完計(万全の計)ではありません。臣敞は広朝(満朝。朝廷)において述べることで端(発端)になりたいと思っていますが、遠郡(山陽郡)を守っているためその路がありません。ただ陛下の省察(考慮)を願います。」
宣帝は張敞の計に納得しましたが、結局朝廷に招きませんでした。
 
 
 
次回に続きます。