西漢時代191 宣帝(十五) 龔遂 前66年(3)

今回で西漢宣帝地節四年が終わります。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
九月、宣帝が詔を発しました「朕は百姓が職を失って困窮することを恐れ(失職不贍)、使者を派遣して郡国を循行させ、民が疾苦としていることを問わせた。一部の吏(官吏)は私利を謀って民を混乱させ(営私煩擾)、その咎(罪)を顧みないので、朕は甚だ民を憐憫している。今年は郡国が頗る水災を被っており、既に振貸(救済)を行った。ところが、塩は民の食であるのに、賈(価値。値段)が全て貴いため、衆庶(民衆)がますます困苦している。よって、天下の塩賈(塩の価値)を減らすことにする。」
こうして天下の塩の値段が下げられました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
宣帝が詔を発しました「令甲(『漢書帝紀の注釈によると、蕭何が漢の律経を作りましたが、その後も天子が詔を発して内容を増減させました。律経にないものを「令」といいます。「令甲」の「甲」は「甲乙丙丁」の「甲」で、「第一」の意味です。よって「令甲」は「第一号の令」を指します)においては、死者は生きることができず(死者不可生)、刑者は(失った手足や鼻等を)成長させることができない(刑者不可息)。これは先帝が重視したことだが、吏(官吏)はまだその意に沿っていない。今、繫者(獄に繋がれている者)の中には、掠辜(恐らく拷問の意味です。「掠辜」は『漢書帝紀の記述で、『資治通鑑』では「掠笞(鞭打ち)」としています)、もしくは飢寒(疾病)のために獄中で死ぬ者もいる。なぜ心を人道に逆らわせるのか。朕は甚だこれを痛む。よって郡国に命じ、毎年、繫囚(獄に繋がれた囚人)で掠笞もしくは(病死)した者の坐名(人名)、県、爵、里(住所)を報告させることにする。丞相と御史は殿最(殿は末端。最は筆頭。ここでは郡国の中で最も優れた地域と最も劣った地域を指します)を考察して報告せよ。」
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
十二月、清河王劉年が内乱の罪(倫理を乱した罪)で廃され、房陵に遷されました。
 
以下、『漢書文三王伝(巻四十七)』からです。
文帝の子劉参はかつて太原王に立ちましたが、代王劉武(文帝の子。劉参の兄)が淮陽王に遷ってから、劉参が代王になり、太原を併せました。都は以前と同じ晋陽です(尚、劉武は後に梁王になります。諡号は孝王です)
劉参は五年に一回入朝し、前後三回朝見しました。在位十七年で死にます。諡号は孝王です。
子の共王劉登が継ぎ、二十九年で死にました。
子の劉義が継ぎましたが、武帝の元鼎年間に漢朝廷が関を拡大し、常山を利用して山関を造ることにしたため、代王を清河に遷しました。劉義は剛王といいます。
剛王劉義は代王と清河王の時代を併せて四十年で死にました。
子の頃王劉湯(『漢書・諸侯王表』では「劉陽」)が継ぎ、二十四年で死にました。劉湯の子が劉年です。
 
宣帝地節年間に冀州刺史(林は名)が上奏し、劉年が太子の頃、妹の劉則と私通したことを弾劾しました。
劉年が王になってから、劉則は劉年の子を産みました。劉則には壻(婿。夫)がいましたが、劉年との間にできた子を養おうとしません。
劉則が「自ら殺してください」と言うと、壻は怒って「王のために子を産んだのだから、自ら王家に養わせろ」と言いました。
劉則は子を頃太后(頃王の妻。劉年の母)に送り届けようとします。
それを聞いた国相が劉則の入宮を禁止するように命じましたが、劉年は従季父(父親側の親族)を往来させて劉則を送迎しました。二人の関係連年続きます。
 
その結果、有司(官員)が劉年の淫乱を上奏したため(上述の冀州刺史林以外の者が上奏したのだと思われます)、劉年は罪を問われて庶人に落とされ、房陵に遷されました。劉年が即位して三年で清河国が廃されます。但し劉年には湯沐邑百戸が与えられました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
この年、北海太守で廬江の人朱邑が治行第一(治政の業績が一位)によって朝廷に入り、大司農に任命されました。
 
勃海太守龔遂も朝廷に入って水衡都尉に任命されました。龔遂はかつて昌邑王劉賀をしばしば諫めた人物です。
以前の勃海周辺の郡では、凶作(歳饑)のため盗賊が次々に現れ、二千石(地方の長官)も逮捕や抑制ができなくなっていました。
そこで宣帝は治政の能力がある者を選ぶことにしました。
丞相や御史が昌邑王国の郎中令だった龔遂を推挙したため、宣帝は龔遂を勃海太守に任命します。
 
宣帝が龔遂を接見して問いました「どのように勃海を治めて盗賊を鎮めるつもりだ?」
龔遂が答えました「海瀕海浜渤海は遐遠(遥遠)なので聖化に染まっておらず、その民は飢寒に困苦しているのに、吏(官吏)がいたわっていません。その結果、陛下の赤子に陛下の兵(武器)を盗ませて、潢池(池)の中で弄ばせることになっているのです。今、陛下は臣を送って彼等に勝つことを欲しますか?それとも彼等を安んじさせることを欲しますか?」
宣帝が言いました「賢良を選んで用いるのだから、彼等を安んじさせることを欲する。」
龔遂が言いました「臣が聞くには、乱民を治めるのは乱縄(もつれた縄)を治める(直す)のと同じです。急いではなりません。まずは緩和させるだけです。そうすれば治める(直す)ことができます。臣は丞相や御史が暫くの間、文法(法制)によって臣を束縛せず、(臣が)全ての状況に置いて臨機応変に行動できることを願います(便宜従事)。」
宣帝はこれに同意し、黄金を多く与えて派遣しました。
 
龔遂が伝車に乗って勃海の境界まで来ました。
郡の官員は新太守が来たと聞き、兵を発して出迎えます。しかし龔遂は全て還らせ、属県に書を送ってこう宣言しました「盗賊を逐捕(追捕。逮捕)する吏は全て解散させる。鉏(鋤)、鉤(鎌)、田器(農具)を持った者は全て良民とみなし、吏は問うてはならない(審問してはならない)。兵(武器)を持つ者は賊とみなす。」
その後、龔遂は単車で官府に入りました。
龔遂の教令を聞いた盗賊はすぐに解散し、兵弩を棄てて鉤鉏に持ち換えました。こうして盗賊が平定され、民は土地に安んじて業を楽しむようになります。
龔遂は倉廩を開いて貧民を救済し、良吏を選んで民を尉安(按撫)牧養(管理して養うこと)させました。
 
龔遂は斉の俗(風紀)が奢侈贅沢で、末技(工商業)を好んで農耕に従事したがらない状況を見て、自ら倹約に務めて農桑を奨励しました。種樹や畜養を義務付け、各家の人口に応じてその数を決めます。
資治通鑑』胡三省注によると、龔遂は民に命じて一人当たり一樹の楡と百本の(恐らく「らっきょう」)、五十本の葱、一畦の韭(韮)を植えさせ、各家に三匹の母彘(豚)と五羽の雞(鶏)を飼わせました。
 
民が刀剣を持っていたら剣を売って牛を買わせ、刀を売って犢(小牛)を買わせました。
もし刀剣を帯びている者を見つけたら「なぜ牛を帯びて犢を佩しているのだ」と言って風刺します。
恩徳によって民を安定させ、巡行を繰り返した結果、郡中の人々に畜積ができ、獄訟が減少しました。
 
 
 
次回に続きます。