西漢時代192 宣帝(十六) 趙広漢の死 前65年(1)

今回は西漢宣帝元康元年です。二回に分けます。
 
西漢宣帝元康元年
丙辰 前65
 
[] 『資治通鑑』からです。
烏孫公主(劉解憂。宣帝本始二年72年参照)の娘が亀茲王絳賓の夫人になりました。
絳賓が漢に上書して言いました「漢の外孫を娶ることができたので、公主の娘と共に入朝することを願います。」
 
春正月、亀茲王絳賓と夫人(烏孫公主の娘)が来朝しました。
宣帝はそれぞれに印綬を下賜し、夫人を公主(皇帝の娘)と号して厚い賞賜を与えました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
杜県東の原野で墓陵の建設を始めました。杜県を杜陵に改名します。杜陵は宣帝陵です。
丞相、将軍、列侯、吏二千石および訾(財産)百万銭以上の者を杜陵に遷しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
三月、宣帝が詔を発しました「最近、鳳皇鳳凰が泰山、陳留に集まり、甘露が未央宮に降った。朕はまだ先帝の休烈(美業)を明らかにできず、百姓を協寧することも、天に従って地に順じることも(承天順地)、四季の秩序を調和させることも(調序四時)できていないが、嘉瑞を蒙り得て、この祉福(「祉」も「福」の意味です。鳳凰と甘露を指します)を賜った。朝から夜まで戦戦兢兢とし(夙夜兢兢)、驕色を持つことなく、内を反省して怠らず(内省匪解)、永く(正道を)考えて極まることがない(永惟罔極)。『書尚書益稷)』にはこうあるではないか『鳳凰が降臨したら、諸官の長が和諧する(鳳皇来儀,庶尹允諧)。』よって天下の徒(囚徒)を赦し、勤事(勤勉)の吏で中二千石以下から六百石に至るまで爵を下賜し、中郎吏は五大夫(第九爵)に至らせる(「中郎吏は最低でも五大夫とし、それ以上の官職にいる者には序列に応じて高い爵位を与える」という意味だと思います。原文「賜勤事吏中二千石以下至六百石爵自中郎吏至五大夫」。誤訳かもしれません)。佐史以上には(爵)二級を、民には一級を、女子には百戸ごとに牛酒を下賜する。鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りのない老人)と三老、孝弟(悌)力田の者には帛を加えて下賜し、振貸の物(救済のために貸し出した物)は回収しないことにする。」
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
有司(官員)が「悼園(宣帝の父劉進の陵園。ここでは劉進自身を指します)は尊号を称して皇考というべきです」と進言しました。
 
夏五月、皇考廟が建てられました。劉進は悼皇考と呼ばれます。「考」は父を意味します。
奉明園の戸数を増やして奉明県にしました。
漢書帝紀顔師古注によると、奉明園は劉進が埋葬された場所で、かつては広明といいましたが改名されました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
高皇帝の功臣である絳侯周勃等百三十六人の家の子孫を再び封侯し(「復家」といいます)、代々絶えることなく祭祀を継承するように命じました。嗣(直接の後継者)がいない場合は、次に順じる者に家を継がせました。
元康四年(前62年)に再述します。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
秋八月、宣帝が詔を発しました「朕は六芸(礼御)に明るくなく、大道にも通じていない。これが陰陽風雨が時に順じない原因である。よって広く吏民を挙げ、その身が修正で(正道を修めており)文学に通じ、先王の術に明るく、その意(道理。真理)を宣究(追及。探求)した者をそれぞれ二人、中二千石はそれぞれ一人とする。」
後半の原文は「其博挙吏民厥身修正通文学明於先王之術宣究其意者各二人,中二千石各一人」です。このままでは意味が通じないので、脱字があるようです。
恐らく、各郡国にそれぞれ二人、中二千石の官員にそれぞれ一人を推挙させたのだと思います。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬、建章宮に衛尉が設けられました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢代は未央宮、長楽宮、建章宮、甘泉宮に衛尉が置かれ、宮門を守る屯兵を管理させました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
京兆尹・趙広漢は世吏世襲の官員)の子孫で官府に入ったばかりの若者を好んで用いました。強壮蠭気(鋭気)の奨励に専念し、事案を処理する態度は迅速で憚ることがなく(見事風生無所回避)、多くの者が果敢な計(考え)をもって困難を感じませんでしたが、最後はその果断な態度が原因で失敗しました。
 
趙広漢は私怨によって栄畜という男を裁いて処刑しました。
資治通鑑』胡三省注によると、栄氏は周代に栄公がおり、子孫がそれを氏にしました。
 
漢書趙尹韓張両王伝(巻七十六)』から少し詳しく書きます。
以前、趙広漢の客が秘かに長安の市で酒を売りました。丞相吏がそれを追い払います。
客は蘇賢という男が自分を告発したと疑い、趙広漢に話しました。
趙広漢は長安丞に蘇賢の罪を調査させます。すると尉史(禹は名。姓氏は不明です)が故意に蘇賢を弾劾しました。蘇賢は騎士になったのに霸上(地名)に駐屯して屯所に赴かず、「乏軍興(軍事行動や物資の調達で時間を浪費すること。軍事行動の妨げとなる行動をすること)」の罪を犯したという内容です。
しかし蘇賢の父が上書して冤罪を訴え、逆に趙広漢を告発しました。
この事件は有司(官員)が再び調査することになります。
その結果、禹は要斬(腰斬)に処され、官員が趙広漢の逮捕も請いました。
宣帝が詔を発して趙広漢を獄に入れる前に審問すると、趙広漢は罪を認めました。
しかしちょうど大赦があったため、秩一等を落とすだけで赦されました。
趙広漢は邑子(蘇賢と同邑の者)栄畜が蘇賢の父に訴えさせたのではないかと疑い、後に他の罪を見つけて栄畜を処刑しました。
 
資治通鑑』に戻ります。
ある人が上書して趙広漢が私怨で栄畜を殺した事を訴えました。
宣帝は丞相と御史に調査させます。
 
かつて丞相府で侍婢が死亡する事件がありました。趙広漢は丞相魏相の夫人が侍婢を殺したと疑い、これを利用して丞相を脅迫します。しかし丞相は趙広漢に対する調査をますます厳しくしました。
そこで趙広漢は吏卒を率いて丞相府に入り、夫人を呼んで庭下で跪かせ、審問に答えさせました。更に奴婢十余人を捕まえて去ります。
丞相魏相が上書して宣帝に自身の潔白を弁明したため、宣帝は廷尉に調査を命じました。
調査の結果、以前、丞相が自ら過失を犯した傅婢(侍婢)を罰して笞で打ったことがありましたが、傅婢は外第(外邸)に出されてから死んだことが分かりました(『漢書趙尹韓張両王伝』によると、事件があったのは宣帝地節三年(前67年)七月で、傅婢は首を縛って死にました)趙広漢が告発した内容と全く異なります。
漢書趙尹韓張両王伝』によると、この時、司直蕭望之が趙広漢を弾劾しました。
宣帝は趙広漢を憎んで廷尉の獄に下します。
 
趙広漢は京兆尹としての業績が優れており、廉明なうえ威信が豪強を制したため、民がそれぞれ職を得ていました(民に居場所がありました)趙広漢が獄に繋がれると、数万の吏民が宮闕を囲んで号泣し、ある者は「臣が生きていても県官(天子)に対して益がないので、趙京兆に代わって死に、趙広漢に)小民を牧養(管理して養うこと)させることを願います」と請いました。
しかし趙広漢は要斬(腰斬)に処されました。
百姓(民衆)趙広漢を思って歌を作りました。
 
漢書帝紀』は趙広漢の処刑を翌年の「元康二年(前64年)冬」としています。
しかし『漢書百官公卿表下』では宣帝本始三年(前71年)趙広漢が京兆尹になっており、六年後に要斬(腰斬)になったとしています。六年後は本年(元康元年・前65年)に当たります。
また、元康元年(本年)には「守京兆尹、彭城太守(遺は人名です。姓氏は分かりません)」と書かれています。「守」は「代理」「試用」の意味なので、本年に彭城太守遺が趙広漢の代わりに京兆尹の職務を行うことになったようです。
更に『漢書趙尹韓張両王伝』を見ると司直の蕭望之が趙広漢を弾劾しています。蕭望之は司直を勤めてから平原太守になり、元康元年に平原太守から少府になりました(下述します)。『百官公卿表下』では本年に蕭望之が少府になっています。
『宣帝紀』が書いているようにもし趙広漢の処刑が翌年だとしたら、蕭望之は司直ではなく、既に少府になっています。よって『宣帝紀』は誤りです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、少府宋疇が「鳳皇鳳凰が彭城に降りたが京師には至っていないから、美とするには足りない」と言ったため、泗水太傅に落とされました(少府は九卿の一つです)
 
当時の泗水王は劉綜(または「劉煖」。勤王)です(昭帝元鳳元年80年参照)
 
[] 『資治通鑑』からです。
宣帝は博士や諫大夫から政事に精通した者を選んで郡国の守相(郡守、国相)を補いました。蕭望之が平原太守に任命されます。
 
蕭望之が上書してこう言いました「陛下は百姓を哀愍(憐憫)し、徳を究められない(天下に普及できない)ことを恐れているので、諫官を全て出して郡吏を補っています。しかし朝(朝廷)に争臣(諫言する臣下)がいなくなったら、(陛下が)過ちを知ることができません。これは末を憂いて本を忘れるというものです。」
宣帝は蕭望之を呼び戻して少府の職務を担当させました(守少府。「守」は代理、試用の意味です。上述の宋疇の代わりです)
 
 
 
次回に続きます。