西漢時代193 宣帝(十七) 馮奉世 前65年(2)

今回は西漢宣帝元康元年の続きです。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
東海太守で河東の人尹翁帰は郡における治政が優れていたため(治郡高第)、京師に招かれて右扶風に任命されました。
尹翁帰の為人は公廉明察で、郡中の吏民の賢才不肖および姦邪な者の罪名を全て把握していました。
各県の状況をそれぞれ記録し、自ら政務を処理します(『資治通鑑』胡三省注によると、諸県の姦邪の事は県令や県長に任さず自ら裁きました)
急名があったら敢えて緩やかにしました(原文「有急名則少緩之」。恐らく「緊急の命令があってもゆっくり発した」という意味です。但し、中華書局の『白話資治通鑑』は「部下が事務を処理する様子が過度に急だったら(厳しかったら)、少し緩やかにするように命じた」と訳しています)
吏民に怠惰が見えたら罪人の名簿を公開しました(原文「輒披籍」。恐らく罪人を公開することで吏民の気を引き締めさせたのだと思います)
尹翁帰が人を逮捕するのは必ず秋冬に行われる課吏大会(官吏を考課する会)の時か、県を巡行した時と決められており、その他の大事が無い時には逮捕しませんでした。尹翁帰が人を逮捕するのは、一人を捕えて百人に警告するためです(以一警百)
吏民は皆、尹翁帰に服して恐懼し、行いを改めて自新しました。
 
右扶風を治めるようになってからは、廉平疾姦(清廉公平で悪を憎むこと)の吏を選んで右職(要職)に就けました。
人と接する時は礼があり、好悪に関わらず同じように遇しましたが、裏切る者がいたら必ず刑罰を行いました。
しかし尹翁帰は温良謙退(温和謙虚)で、行能(品行と才能)に頼って驕ることがなかったので、朝廷で大いに名声を得ました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
以前、烏孫公主(漢から嫁いだ劉解憂)の第二子万年(宣帝本始二年72年参照)が莎車王に寵愛されました。
資治通鑑』胡三省注によると、莎車国の都は莎車城で、長安から九千九百五十里離れていました。
 
莎車王が死んだ時、跡継ぎがなく、万年は漢にいました。
莎車国の人々は自国を漢に託して庇護を受け、しかも烏孫の歓心を得ようと考え、漢の朝廷に上書して万年を莎車王に立てることを請いました。
漢はこれに同意し、使者奚充国に万年を送らせます。
資治通鑑』胡三省注によると、奚姓は夏王朝の車正奚仲の子孫です。
 
こうして万年が即位しましたが、暴悪だったため国人は喜びませんでした。
 
宣帝が群臣に命じて使者として西域に派遣するにふさわしい者を推挙させました。
前将軍韓増が上党の人馮奉世(戦国時代・馮亭の子孫です。東周赧王五十三年・前262年参照)を推挙したため、衛候(辺境守備の官。または賓客を守って送迎する官)として符節を持たせ、大宛等諸国の客を送って伊循城(鄯善国)に向かわせました。
 
ちょうどこの頃、以前の莎車王の弟呼屠徵が隣国と共に莎車王万年と漢の使者奚充国を攻めて殺し、自ら王に立ちました。
この時、匈奴も兵を発して車師城を攻めましたが、攻略できずに去りました。
 
莎車が使者を送って「北道の諸国は既に匈奴に属した」と宣言しました。
莎車国は南道を攻撃し、各国と歃盟(盟を結ぶこと)して漢に背きます。
鄯善以西では漢と通じる国がなくなりました。
漢の都護鄭吉、校尉司馬憙は北道の諸国の間にいます。
 
馮奉世は副使厳昌と計を練り、「早く攻撃しなければ莎車が日に日に強くなって抑制が難しくなり、必ず西域を危うくすることになる」と考えました。そこで符節を持って諸国王を諭し、兵を動員させます。
南北道併せて一万五千人が集まり、莎車を攻めて城を攻略しました。
莎車王は自殺し、その首が伝車で長安に運ばれます。
以前の王の別の兄弟(呼屠徵以外の兄弟)の子が莎車王に立てられました。
 
こうして西域諸国が平定され、馮奉世の威信が西域を振わせました。
馮奉世は西域諸国の兵を解いて朝廷に報告します。
宣帝が韓増を接見して「将軍が相応しい人材を推挙したことを祝賀しよう」と言いました。
 
馮奉世が西に向かって大宛に入ると、大宛は馮奉世が莎車王を斬ったと聞き、特別に敬って他の使者と差をつけました。
馮奉世は大苑の名馬象龍を得て帰還します。
 
宣帝がとても喜んで馮奉世の封侯を議論させました。丞相も将軍達も賛成します。
しかし少府蕭望之だけはこう言いました「奉世は使者の任務を奉じて指(旨。目的)がありました(本来の任務は諸国の客を送ることです)。しかし勝手に制して(指示を出して)命に違え、諸国の兵を発しました。たとえ功效(功績)があったとしても、後の者に倣わせるべきではありません。奉世を封侯したら、今後、使者の命を奉じる者のために利の道を開き、(使者達は)奉世を前例にして、争って兵を発し、万里の外で功を求め、夷狄の地で国家のためと称して事を起こすことになります。このような気風を増長させてはなりません(漸不可長)。よって奉世が封を受けるのは相応しくありません。」
宣帝は蕭望之の意見を称賛し、馮奉世の封侯は止めて光禄大夫に任命しました。
 
 
 
次回に続きます。